誘惑のキスをして


若紫鬼の名を彼女に与えたのは、かつて鬼を捨てた彼女に、新たたに幸福な鬼として生まれ変わる機会を与えるため。そして彼女の本当の名を――なまえと呼ぶ権利を己だけのものにしたかったからだ。

それだというのに、今や若紫鬼の名は、鬼達の中ですっかり知れたものになっていた。知れ渡ったその名が、本名でないのは思惑通り。だが。

(面白くない)

彼女の夫である千景は、内心複雑である。
なまえが嫌い憎んでいた鬼達を許容し、幸せそうなのはいい。皆が彼女を素晴らしい女鬼だと、そして風間の愛妻であると認識していることもいい。
しかしなまえの人気は、千景の想定以上だった。皆がなまえを構おうとする。近づきたいと口にする。そのことに、何故か酷く腹が立った。

――簡単に言ってしまうと、嫉妬しているのだ。
妻を自慢したいのと同時に、他の者になまえの良さをこれ以上知られたくなかった。なまえが自分以外と楽しげにしている様子など、見ていられない。

遠方からやってきた客に夫婦で対応した今日も、千景はずっとどす黒いその気持ちを表情の下に隠していた。
常ならば素直に、表情に出していただろう。だがそうもいかない。風間の頭首として――…否、それよりもなまえの夫としての威厳があった。何かと騒がれるこの妻に、見合う男でなければならない。無意識下のそういった思いが、彼の気持ちを内心に留めていたのである。だから客も彼の不機嫌さに気付く様子はなかったし、使用人たちも同様だった。


しかし、客を送り出した後。
ようやく二人きりになれたところで、なまえは振り返り首を傾げたのだ。


「千景、今日は不機嫌な顔をしてどうしたのでしょう」


的を射た彼女の言葉に、千景はぎょっとした。思わず目を見開き、しかしすぐに取り繕うように返答する。


「不機嫌な顔などしていない」

「しています。貴方のことは、私が一番よく分かっているもの。私が誰よりも一番、貴方のことを見ていますからね」


なまえは千景を見上げて、からかうように笑った。何でもお見通しだというような彼女の発言に、千景は目を細める。


「一番、か。だったら…」


妻の顎を指で掬い、反対側の手は彼女の腰を捕らえる。こちらを見上げる彼女は相変わらず美しい笑みを浮かべている。その紫苑色の瞳に、艶やかな唇に、引き寄せられるようにして距離を詰めた。


「俺が何故、不機嫌なのか。その理由に思い至るのではないのか?」


彼女の了承も得ないまま、強引に唇を重ねる。何度も啄み、可愛らしい唇を割ると、舌を滑り込ませる。乱暴に、しかしゆっくりと口内を蹂躙する。余すところなく、お前は俺の女なのだと教え込むように。決して逃がさないと、思い知らしめるように。

しばらくの口吸いの後、なまえは息を乱して千景を見上げた。紫苑の瞳には薄い膜が張り、紅潮した頬と相まって彼女を艶めかしく魅せた。


「…いいえ、あなた。私には、そんな余裕はありません」


色気をそのままに、なまえは囁く様に言う。


「私は貴方と一緒にいるだけで、いつも胸がいっぱいなのです。いつだって、貴方しか見えていない。その事に気付いてください、千景」


紡がれた甘い言葉。こちらを見つめる瞳には、この後の情事を期待するような色を含んでいるように見えた。愛おしい妻に可愛らしく強請られ、無碍にできるわけがなく。

先程までの不機嫌は、どこへやら。満足顔で、もう一度、千景はなまえを抱き寄せたのだった。



140719



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