世界よ、無知であれ 作業台の上に並べられた、何種もの工具、幾枚もの設計図、そして色とりどりの飴。 「助手子、それひとつとって」 「どれ?」 「いちご」 モスカの整備を続けたままのスパナに、私は支持された通りに棒付き飴をひとつ差し出す。手を止めることなく器用にフィルムを剥き、口に銜えた彼を見て、私もひとつ飴を手に取り同じように銜えてみた。 「どうしたの、珍しいね」 「そう?たまに、スパナに内緒でこっそり貰ってたりして」 「え…気付かなかった」 「だって内緒だもん」 唇に人差し指を宛てて、笑いながらそう言うとスパナは瞳を瞬かせた。 「この飴、市販のどの飴も敵わないくらい優しい味してるから。落ち込んだ時とか、舐めると元気になれる気がする」 「それは、ウチの愛が詰まってるからだな」 「ふふ、そうかも」 工具の"スパナ"の形をした棒付き飴は、彼の手作りである。自分で作ったという型に材料を流し込み、固めて作るのだ。私も何度か手伝ったことはあるけれど、この飴の製作は今も彼が自ら行っており、たまに新しい味のものが増えていたりする。 「…覚えてる?私が初めてこの基地に連れてこられた日のこと」 口の中に広がる適度な甘さを味わいながら、私は過去に想いを馳せる。丁度一年くらい前だ。白蘭さんに強引に連れてこられた私は、スパナと再会した。 「泣きじゃくる私に、スパナったら沢山飴を持たせてくれて。それが少しおかしくって、でもスパナの手があったかくって」 溢れた涙を止めることができない私を前に、スパナはうろたえていた。そして飴を手渡し、優しく背中をさすってくれたのだ。思えばあの時から、もう彼に惹かれていたかもしれない。そう付け足すと、スパナはちょっとだけ勝ち誇ったように笑った。 「じゃあ、ウチの勝ち。ウチは助手子に一目ぼれだったから」 「うそ」 「うそじゃない。恋だって認識はしてなかったけど、助手子に惹かれてた。それは間違いじゃないだろ」 晴れて恋人同士になってからというもの、スパナはさらりと恥ずかしいことを言う。いや、恥ずかしいことを言うのは前からだったけれど、最近のものは意識して言っているあたり性質が悪い。 ずるいと口を尖らせてみればスパナは、作業の手を止めて私に近づく様に合図する。 「助手子」 こつん、と合わせられた額。 「目を閉じて」 そっと唇を重ねられる。啄ばむようなキス。いちごの味がすると囁けば「でも助手子の方が甘い」と囁き返される。そして、されるがままにスパナの腕の中に誘われた。 「助手子の目を、ずっと塞いでいられたらいいのに」 「どうして?」 「汚い世界を、汚れたウチを――見ないで、欲しいから」 マフィアの世界に身を置きながら、スパナは相変わらずこの世界を良く思っていない。いや、きっと裏社会自体を否定しようという気はないだろう。そして自分がそこへ組み込まれていることについても、特に何も思っていないだろう。けれども私がそこへ居ることについて良しとしていない。スパナは未だ、私を守りたいと言うのだ。 「やだ」 私はすぐに即答した。 「私は、どんなスパナでもいいの。ありのままのスパナが、見たい。ずっと隣で同じ景色をみていきたい」 「…ありがとう。助手子が居れば、ウチはいくらでも強くなれる」 スパナは少し泣きそうな笑顔で私を見つめる。そして、掠れた声で何度も何度も囁く。 「助手子、好きだよ」 「うん、私も」 「好きだよ、愛してる」 私はもう知っていた。スパナはストイックに見えるけれど、実は繊細な人なのだと。どこまでも純粋な心を持っていて、優しくて、温かくて、切ない。彼は私を守るというけれど、私も彼を守りたい。スパナの心は、私にしか守れないと思うから。 「臆病なウチを許して。血に染まる道を行く中で、助手子が変わってしまうんじゃないかって怯えてる。どんな助手子も愛したい。でも怖いんだ。汚してしまうんじゃないかって」 「…大丈夫だよ。私は、いつまでも私。スパナが変わるなっていうなら、変わらない」 とはいえ、普遍なものなどない。きっと私もスパナも、変わらずにはいられない。私たちも、それはわかっている。分かっているけど、望まずにはいられないのだ。 だからもう少しだけ。 もう少しだけ、私たちを見逃してほしい。 この些細な幸せを、二人で感じていたい。 スパナと出会った奇跡を、かみしめたい。 いずれ、戦いのときは来るだろう。 その時は逃げない、隠れない、正面から迎え撃つ。 だからもう少しだけ。 世界中が、幸せな私たちを見逃してくれることを願うのだ。 世界よ、無知であれ 110422/完結 |