苦しみに似たやさしさ



本当は、こんなにスパナを困らせようだなんて思っていなかった。確かに入江さんのことは気になるけれど、私にとっても聞きにくいことだったから。


「入江さんのこと、教えて欲しいの」


けれど、考えるより先に言葉は滑り出ていた。入江さんの名前はγさんから聞いた。スパナは私が知っているなんて予想だにしなかっただろうから、驚いたと思う。でも一番動揺していたのは、私。

――さっき、こらえきれず私の頬に零れ落ちた涙をスパナは拭おうとした。しかし伸ばされたその手を私は、叩き落としたのだ。

ほとんど無意識だった。けれどその瞬間に、話に聞いた「入江さん」のことが頭をよぎったことは否定できない。
スパナは優しい。私が困っている時、苦しい時、ちゃんと分かってくれてそっと支えてくれる。だから少しでも私も彼の手助けができたらと思っていた。でも今、その彼の優しさを苦しく感じる。きっとスパナが優しいのは私にだけじゃない。それに気づいてしまったから。


「どうして、」

「γさんたちに聞いたの。入江さんってここの指揮官なんでしょ?それにスパナと懇意にしてるって」


驚きからか、言葉を詰まらせるスパナ。彼にそんな顔をさせたくないと思う反面、予想通りの反応に私は徐々に饒舌になる。口からは、予想外に淡々とした無機質な声が出た。まるで、自分ではないみたいだ。スパナはじっと私を見て、それから困ったように眉を寄せて答える。


「特に、助手子に話すことはない」


がつん、と鈍器で殴られたかのような衝撃。明らかな拒絶に、背中が凍ったように固まった。
…でもこれは、自分で仕向けたことだ。スパナがそう言うということは承知で、私はこの話題を振ったのだから。否、むしろそれを期待していた節すらある。
が、予想より以上にスパナの口から聞いた時の衝撃は大きい。


「私は……うん、関係ないもんね」


漸く絞りだしたのは、言い訳のような言葉。
動揺を悟られないように、私は無理やり笑みを浮かべようとする。何でもない、何もなかったというように。


「スパナにとっての私は、ただの助手だもん。スパナが話したくないっていうなら構わないよ」


……嘘。全部、嘘。
スパナが私に必死に伏せる「入江さん」のこと、私は聞きたくてたまらなかった。私の知らないスパナの存在が、怖かった。置いていかれそうで、スパナがまるで、知らない人になってしまったように感じた。


「でも、入江さんが気にするんじゃないかって、私みたいなのが突然助手になったら、吃驚してしまうんじゃないかと思う」


入江さんのため、スパナのため。
そういいながら、今の私は結局自分のことしか考えていない。遠ざかるスパナに少しでも、追いつきたい。…「入江さん」よりもスパナと強い絆で結ばれていたい、なんて無意識に考えているのだ。


「詮索、されたくないなら聞かない。でも、そんなにひた隠しにする必要は、ないんじゃない…かな」


嗚呼、私は明らかに、「入江さん」に嫉妬しているのだ。
技術者と助手の関係。上司と部下の関係。それだけだった筈なのに、私はいつの間にか彼の旧友に嫉妬するくらい、依存していたらしい。「入江さん」からしたら、私が新参者で、スパナのただの仕事仲間。対して「入江さん」はスパナの大切な人、なのに。
情けない。自分の事しか考えずに、それをまっすぐに伝えられもせずに、私は言い訳がましく言葉を綴る。勝手に依存して、嫉妬して。私は、本当に馬鹿だ。
自分の心の狭さが悔しくて、涙が溢れる。ごめん、ごめんなさい。でも、今の私はスパナ無しでは成り立たない。それに気がついた。せめて素直になれたら良かったのに。それすら私は、出来なかった。自分の器の小ささがこれ程嫌になったことは、ない。

スパナは俯いた私を相変わらず、困ったように見ている。無理やり拭った涙はきっとばれているだろうけれど、さっき手を叩き落とした影響か、彼がこちらへ手を伸ばすことはなかった。
呆れられるだろうか。きっと、スパナは状況を把握できていない。こうなったらどうにでもなれ、と私はスパナを正面から見据える。スパナは、申し訳なさそうに首を傾げた。


「悪い助手子、意味がわからない」


…今更素直になんてなれないし、取りあえず「入江さん」を紹介してくれさえすればいい。そうすれば、この気持ちも収まるかもしれない。


「…だからね、スパナには分からないかもしれないけど、入江さんにとって重要なことだと思うの」


私がそう言うと、スパナは一層顔を顰めた。それは怒っている、というより困惑顔である。


「なんで正一の気持ちが、助手子にわかるんだ」


なんて彼は、罪作りなんだろう。それがまた可愛いのだけれど。嫉妬という言葉を知っているだろうか、とさえ疑ってしまう。


「だから!スパナにはわからないだろうけど、同じ女として――」


言いかけて、はっとした。…気持ちとかそういう事ではなくて、なにか、話がかみ合ってない・・・?それよりも、今スパナ何て言った?正一?それは女性の名前としては、あまりにも・・・。

まさかとんでもない間違えを、と焦りを感じた私に追い討ちをかけるようにスパナの言葉が突き刺さる。


「何を勘違いしてるのか分からないけど…正一は、男だ」




100305



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