鱗の下半身 始めの違和感は、とても些細なものだった。ほんのちょっとした、引っ掛かり。自分の記憶違いだと言われてしまえば、否定できない程度のもの。 「私、携帯こんなところに置いたっけ・・・?」 だいたい、ベッドか鞄かテーブルの上が定位置である携帯電話。なのに、絨毯のど真ん中に置かれたそれ。踏むのが怖くて、普段は床に物を置かない私。 だからだろうか、その光景が酷く奇妙に見える。 それが、一連の恐怖の始まりだった。 学校が終わり家に向かう。しかし私は、最寄駅を意図的に乗り過ごす。ふたつ先の駅で降り、周りを注意深く見渡し、そわそわしながらタクシーを呼び止める。 ここ数日は帽子を深く被りなるべく目立たないような服装を選んでいるけれど、それでも自分が酷く目立っているような錯覚に陥る。すれ違う全ての人に見られているような錯覚。 事実、どこに居ても視線を感じるのだ。 家から少し離れたところでタクシーを降り、いつもは通らない道を使ってアパートに帰る。全て、周囲を気にしながらした行動だ。誰も私を見てなんかいない。大丈夫、大丈夫・・・な筈なのに。 (き、きた・・・) ちょうど鞄を下ろしたところで、メールの着信を知らせるバイブが鳴る。恐る恐る受信箱を開く。知らないアドレスからだ。躊躇いながらもメールを開く。 「!!!」 思わず携帯を投げ出した。タイトルも本文もなく、添付の写真が一枚だけ。それは先程、タクシーから降りた時の私の写真だった。 (見られてる・・・!) 慌ててカーテンをきっちり閉める。ちょっとの隙間も覆うように、窓の前に荷物やクッションを積み上げる。戸締りを確認する。どの窓も玄関も施錠されている。それでも安心できず、ベッドに飛び込んで布団を頭から被った。 (なんで私がこんな目に・・・・・・) 数日前から私は、俗に言うストーカー被害を受けている。 最初は視線を感じたり、些細なこと。でも次の日から毎朝毎夕、知らないアドレスからメールがくるようになった。しかも内容は「おはよう」「おかえり」「おやすみ」などどう考えても私の生活リズムを把握しているとしか思えないものだ。着信拒否をしても毎回違うアドレスだから意味がない。 その次の日からポストに封筒が入るようになった。中には写真――私を盗撮した写真が沢山。そして、無くしたと思っていた私のシャーペンやキーホルダー。 更に次の日から、外に出るたびに後を付けられているような気配を感じるようになった。どこにいても何をしていても、見られているような気がする。気持ち悪い。 きっと自宅は見張られている。家を出るたび付けられるのだ。だったら外出を控えようかと思ったけれど、あることに気付いて愕然とした。部屋に私以外の誰かが立ち入った形跡があるのだ。ちょっと物が動いているとかその程度だけれど。気持ち悪くて怖いことには、変わらない。 家に居ても安心はできない。見張られている。もしかしたら、入られているのかもしれない。内側からチェーンを掛けていれば今は大丈夫だけれど、もしかしたら、と嫌な想像は尽きることはない。 (でも誰にも相談できないし・・・) しかしそんな日も長くは続かなかった。 毎日毎日続くストーカー被害に辟易していたところを、心配した学友の都とゆきに問い詰められ全て打ち明けてしまったのだ。 そして一番恐れていた事態に発展するのも早かった。彼女たちの口から、小松さんの耳に入ってしまったのである。 「どうして早く私に言わなかったの」 鋭い視線に身を竦める。仁王立ちの小松帯刀さんは物凄く起こっていた。 小松さんは、私より年上の恋人だ。少し前にベンチャー企業を立ち上げ、いつも忙しそうにしている。それでもたまの休みには、学生の私に合わせて色んなところに連れて行ってくれたりする、自慢の彼。 (だから、あんまり迷惑かけたくないのに) ただでさえ子どもっぽい私は、小松さんの手を煩わせてばっかりだ。きっと今回のことが知れたら、また重荷になる。だから彼には黙っていたかったのに。 「君ね、わかってないみたいだから言うけれど。そうやって秘密を作られる方が迷惑だよ。八雲さんたちから話を聞いて、どれだけ焦ったかわかってるの」 「でも――私小松さんに重荷と思われたくない。まだ子どもだけど、対等で居たいの」 「私が大人で名前が子どもなのは、変えようのない事実だ」 言い訳は、ぴしゃりとはねのけられた。怒った時の小松さんは、いつもに増して容赦がない。俯く私に更に追い討ちをかける。 「名前は人魚姫じゃないんだから、声が出せないわけでもないでしょ。今度からはちゃん言える?」 「はい・・・ごめんなさい」 「よろしい」 ――対等でいたいだなんて、ただの私のわがまま。小松さんは、私を子どもと知った上で好きでいてくれる。それを、頼りたくないという理由だけで隠し事をしたら、怒られるに決まってるじゃないか。 改めて、迷惑を・・・心配を掛けたと反省して素直に頷く。小松さんは、ふわりと微笑んで頭を撫でてくれた。眼鏡の奥の瞳が優しげに私を見つめる。 「とりあえず、当面は部屋に帰るのを諦めなさい。今から私が一緒に行くから、簡単な荷物だけ詰めてこよう」 「え、でも実家は遠いしホテルに泊まるお金なんて・・・」 「馬鹿だね。私のマンションに泊まれって言ってるんだよ」 突然の提案に私は吃驚するが、彼は当然のように続ける。 「当分、学校までは車で送り迎えしてあげる。ストーカーのことは私に任せておきなさい」 そしてゆっくり抱き寄せられた。 小松さんのぬくもりに包まれてようやく、彼の言葉を理解する。小松さんのお家にお泊り。初めてではないけれど、つい赤面してしまったのは仕方のないことだろう。 「お世話になります・・・!」 「毎日名前の手料理が食べられると思えば、安いものさ」 どうやら家事は任されてしまうらしい。お世話になるかわりだもの、と力強く頷いた。 その後、小松さんの計り知れない人脈と情報を駆使した結果、あっという間に犯人は捕まった。 私のアパートの郵便受けに、手紙を投入したところを捕獲されたらしい。私が小松さんに保護されてから、僅か三日ばかりでのことだった。 小松さんの知り合いだという警察の方が、ざっと逮捕時の様子と犯人について教えてくれた。 「よく行くコンビニの、アルバイトの人だったんです。どうやら、昔の恋人に私が似ていたらしくて・・・」 見かけたら挨拶をする程度には関わりがあったのだ。まさか顔見知りによる犯行だったなんて、改めてぞっとする。 「小松さん、本当にありがとうございました!」 「構わないよ。可愛い恋人の為だからね」 「もう・・・」 それでも私が落ち着いていられたのは、小松さんが一緒にいてくれたから。優しく甘やかされた数日間に、現金ながらもちょっと良かったかもと思ってしまう程。 でも一つ、不思議なことがある。 犯人は私の部屋には一切入っていないと主張しているらしい。所持品の中にも合鍵やピッキング道具の類は見つからず、侵入はしていないだろうと断定されたのだ。 (まぁ・・・もうあの部屋には戻らないし、不安もないからいいけど) 今後私は本格的に、小松さんのマンションにお世話になることになった。部屋が余っているしまた一人にしておくと不安だから、という理由だったが実質的な同棲には違いなくて、うれしい誤算であった。 だからもう、不安がる必要はない。これから先は、小松さんとの幸せな蜜月だ。 「名前。バスタオルは寝室だよ」 「あっそうでした!すいません」 「いいよ。前のアパートで洗面所に置いていた癖、直ってないようだね。早くこの部屋にも慣れてよ」 「はい、頑張ります!」 返事をしながら一つの疑問が頭を掠める。 (あれ小松さん、私の家に入ったこと、あったっけ?) 私は絨毯に放り出された彼の携帯電話を、テーブルに置きながら首を傾げた。 鱗の下半身 130206 |