▽口癖みたいに愛してね


「若紫鬼様は本当にお美しい」

「風間の頭領は良い嫁御を貰われた」

「若紫鬼様のお目にかかる為に、風間の里へ通う使者も多いそうで」


近頃はどこに居てもその名が耳を掠める。今も、横をすり抜けていった女たちが興奮気味に噂を立てていた。

――若紫鬼

それは、千景自身が己の妻に贈った名である。妻の名を呼ぶのは夫たる自分だけで良いと、婚礼の後から周囲にはその名で通っていた。
本来妻とは、表には出ず裏で夫を支えるもの。しかし頭領の嫁である名前は雪村の後継者でもあり、千景に同伴していることが多かった。そのうちに、どうしたわけか彼女は皆の注目の的となっていた。


「すっかり人気者だな。名前は」


ふらりとやって来て風間の里へ滞在している不知火が、苦笑する。


「うちの里でも、持ちきりだ。こういう流行りは収まるのを待つしかねーんだろうが、名前は目立つの嫌がりそうだからちょっと心配だよな」

「・・・軽々しく俺の妻の名を呼ぶな」

「いいじゃねーかよ。俺にとって名前は、お前の妻以前に友人なんだからよ」


名前の名を直接呼ぶ者は、限られている。彼女の本名を知らない者が殆どだろう。若紫鬼、風間の御台所、風間の奥方、など飛び交う言葉の中に”名前”という文字はない。

(その点では成功だったか)

そもそもが鬼嫌いである妻は、この事態を好ましく思っていないだろう。ぼんやりと思考している所に、不知火の発言が割り込んできた。


「流行りとはいえ、厄介だよなァ」


不知火は周囲に目を配りながら、神妙な声色で言う。


「お前、気をつけた方がいいんじゃねぇ?人妻だからって、手を出す男が居ないわけじゃないんだぜ」



*



「千景、どうしたのです。怖い顔をして」


妻の部屋を訪れたのは、気紛れだった。安定はしてきたものの悪阻の酷い彼女は、なるべく身体をいたわるように部屋で休んでいる。今日は具合が良いのか、繕い物をしていたようだ。
と、部屋の隅に積み上げられた見慣れぬ箱に眉を寄せた。


「最近、随分と言伝や面会希望が多い、とか」

「そうなのよ。知らない方からの贈り物が多くて――懐妊祝いだと思うのだけれど。風間の名の重さに改めて驚いてしまうわ」

「外来の相手は俺がする、お前は応じなくて良い。贈り物も、詳細を報告するように」

「わかりました。千景、ありがとう」


貴方の気遣いが嬉しいわ、と笑む妻へ急に愛おしさが増して、その身体を腕の中に閉じ込める。


「なぁに、どうしたの」


夫の突然の行動に狼狽える様子もなく、くすくすと笑う彼女に少しだけ加虐心が芽生えた。
最初は手を握るだけで真っ赤になっていたのに、随分慣れたものだ。それもその筈。日頃から千景が必要以上に妻を構いたがるものだから、慣れないわけがない。


「名前」

「はい」

「お前は、俺のことをどう思っている」

「はい。お慕いしています、誰よりも」


欲しい言葉が寸分違えず、惜しみなく与えられる。それは想像以上に、心地よいことだった。
感じていた不快はすっかり払拭され、気を良くして千景は妻に口付ける。


「もう、困った人」


名前は幸せそうな顔で、千景に身を委ねるのだった。



120907
5周年フリリク、匿名希望さんに捧げます。



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