アンバランス


元々、荷物は少ない。それでも急な旅立ちにあわせて選別する暇はないので、貴重品や最低限の必要なものだけを詰めて立ち上がる。

(やっと、慣れて来たのになぁ)

短い間だったが、住み心地の良い部屋だった。少しだけ、ここを去るのが悔やまれる。けれど、とりあえず、すぐにでもここから離れなければならない。

暫く衝撃で動けなかった私も、日が暮れる頃には落ち着きを取り戻した。そして悩んだ結果、決断した。この地を去る、家族や的場とは縁を切り、新しい人生を歩むと。分かっている、これは逃げだ。でも、逃げたいのだ。私には、耐えられない。
静司は一筋縄ではいかない相手。きっと七瀬から昼間の件は伝わっただろう。感づかれる前に、身を隠さなければ。

もう一度、部屋を見渡して私はドアノブに手を掛けた。そして一歩外へ踏み出したところで……目を疑った。ぼとり、鈍い音を立ててボストンバックが肩から落ちる。


「何処へ逃げるおつもりで?」


とうに日の暮れた闇の中に、溶け込むように立っていた男。軽い口調での問い掛け、しかし射抜くように、その片目は私に向けられている。


「や…だなぁ。逃げるって何。ちょっと留守にするだけだよ」

「ちょっとですか」

「うん。また戻ってきたら連絡するね」


震えそうになる脚を叱咤し、平静を装った。まさか、こんなに早くに彼が来るとは思わなかった。バクバクと煩く音を立てる心臓をごまかし、あたり触りのない嘘をついて、彼の横をすり抜ける。
けれど――的場静司はそれを、許してくれなかった。


「行かせない」


乱暴に掴まれた腕を容易に捻り上げられ、痛さに顔をしかめる。が、構わず静司は閉まったばかりの扉を開け、私を玄関の中へと放り込んだ。ど突かれ、腰と背を強く打ち、思わず呻く。文句を言おうと目を上げたところで、覆い被さってきた彼に、肩を床に抑え付けられた。痛い。


「また、逃げるんですか。あの時のように」

「………ッ」

「言ったでしょう、逃がさないと」


左目がギロリと私を見つめた。こちらからは見えないが、恐らく札の下の右目も、同じように私を映しているのだろう。


「夢子が的場を抜けたあの日、私は貴女に話があると約束していましたよね」

「え……?」


思わぬ問いに、目を剥く。彼が指すのは、私が高校卒業を期にここを離れた日のようだ。しかし、静司との大事な話?…そんな約束しただろうか。
如何せん、既に遠い過去になりつつある。しかも、私も手一杯の時期だ。記憶に自信がない。


「貴女は、何も言わずに出ていった。その時だけではない。何度も、貴女は私が大切な話をしたい時に限って、逃げる。…わざとですか?」

「そんなつもりはっ」

「否定ですか。まあ、いい。兎に角、もう私もこれ以上は待てません」


静司は決して、優しい人ではない。目的の為には容赦ないし、味方以外は平気で傷つける。自分の式を壊すのも躊躇わない。巷では、非情と噂されるくらいだ。
冷たい目。加減を知らない拘束。
私は…それを身に受けるのは初めてだった。幾度となく傍らで見ていた非情な彼を、初めて、本当に"知った"。いかに今まで、特別扱いだったのかわかる。
私ごときでは、適うわけがない。


「もし、今まで私が静司くんを傷つけていたのなら、謝る。ごめんなさ」

「…そんな言葉が欲しいのではない!」


遮られ、一層強い力で押さえ付けられる。肩を押すのとは反対の手は、私の手首を握っている。あまりの力に、骨が軋むような音すら聞こえた。
しかし、私は叫ぶこともできない。否、痛覚にまで気が回らなかった。
暴力を与えられているのは私だというのに。私よりも断然、静司が苦しそうな顔をしていたのだ。歪んだ表情、影の差す瞳。一筋の滴が頬を伝う。


「姉さん…いい加減、僕を見てくれ…ッ」


彼が絞り出した声は、彼らしからぬ、激情に突き動かされたようなものだ。合理的な彼は、感情のまま動いたり、しないのに。私は、驚きに言葉が見つからない。

(こんなに取り乱すなんて…)

一体、いつから私は思い込んでいたのだろう。彼が私よりもずっと強いだなんて、どれくらい時が経とうと、年下の男の子には変わりはないのに。

それでも、私を床へ縫い止める力、抑え付けるその手や欲に濡れた瞳は、雄弁に、彼が成人男性であることを物語っている。


何もかもが酷く、アンバランスだった。


120601



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