「籠もよ、み籠持ち…この丘に菜摘ます児家聞かな、告らさね…我にこそは告らめ家をも名をも」



夏、熊野である。
クーラーも扇風機も無いこの世界。京の暑さにはかなり参っていたのだが、熊野は避暑地として最適だった。海が近い。山もある。
熊野へ来た理由はどうであれ、個人的にはあのまま京に滞在しているよりずっと良いと思ってしまう。

一度熊野へ行こうという話になったのは、鎌倉殿からの書状が原因だった。曰わく、熊野水軍を手に入れて来い、と。

源氏軍は平氏の都である福原へ、攻め込みたいらしい。福原は、私たちの時代でいう神戸。海に面している地だ。そして海路での貿易もしている平家は、それなりに立派な水軍を有していた。
つまり、源氏軍も水軍が欲しいのだ。そこで白羽の矢が立ったのは、源平の間で依然として中立を保っている熊野水軍ということ。
九郎さんは鎌倉殿からの書状にいたく感動し、すぐさま仕事を引き受けた。これが事の次第である。


途中、偶然再会した将臣くんを交え、私たちは本宮を目指した。頭領たる熊野別当に会うために。そうして、漸く辿り着いた田辺の地で、妙な歓迎を受けたのだった。




「あんたが噂の白龍の神子かい?評判どおり可愛いね」


突然、木の上から少年が降ってきた。
あまりに突然だったので、一同はぽかんとして彼を見つめる。彼はそれを気にした風はなく、ただ望美ちゃんの手を取って微笑んだ。それから、ごく自然な動作で手の甲に落とされたキス。


「なっ…!」


息を飲んだのは九郎さんか、譲くんか。当の望美ちゃんは少し驚いたようだが、さして気にした風はない。


「私のことは望美でいいよ。貴方は?」

「そうだな…ヒノエってとこかな」


二人はあっさりと、自己紹介を済ませた。このような時は、いつも感心してしまう。彼女は肝が据わっているとでもいうのか、素直すぎるのか、真っ直ぐに物事を受け入れる。
それにしても、彼――ヒノエくんは、随分軟派な態度である。年は私たちとそう変わらないように見えるけれど、立ち振る舞いや言動は現代のクラスメートたちとはまるで違う。女慣れしているとでも、言えばいいのか。


「古代では、相手に名を告げるのは、心を許すのと同じ意味だったんだぜ」

意地悪く笑う様子もどこか色っぽい。流石に望美ちゃんも、ちょっとだけ頬を赤くしている。
でも、決して嫌なイメージは持てないのだ。望美ちゃんもそう思っているのか、からかうような彼に口を尖らせながらも、楽しそうである。

(立ち振る舞いがやけに堂々としているからかな)

私は一連の騒動を後方から眺めていた。けれど、胸にわずかな引っ掛かりを感じる。その原因に思い至るまでに、そう時間はかからなかった。


――籠もよ、み籠持ち


彼が何気なく口ずさんだ詩だ。それに覚えがあったのだ。

(雄略天皇の長歌だ)

和歌に特別詳しくはない。単純に、授業で習ったことがあるから、記憶にあった。だから、その詩が含む意味も覚えていた。


「…熊野別当だったりして」


その思い付きは、考えるより先に口から出ていた。でも、呟いた途端に私は後悔する。ヒノエくんがこちらを見て、意味ありげに目配せしたのである。




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