突如浮上した弁慶さんの名前に、ひやりとしつつも、どこかで納得。私にはそんなこと、教えてくれなかったのに。あの人の考えていることはいまいち分からない。


「おや、賑やかですね。華やかな声が表まで聞こえてきて、つい早足で入ってきてしまいました」


吐きかけた溜め息が止まった。


「弁慶さん!」


背後の障子はいつの間にか開いていて、望美ちゃんはそこに立っているであろう人物に声をかける。


「あのね、今あかりが」


恐る恐る振り返った。予想通り、纏う黒衣の影からこちらに視線を向ける瞳と目が合った。


「――あかり、どうしてここに居るんです」


望美ちゃんたちに向けるものとは明らかに異質な、ひやりとした視線だ。私は目を逸らすこともできずに、どもりながらも言葉を綴る。


「手紙、を。急なものだと聞いて届けにきたんです」

「急だと聞いたのに、こんなところで油を売っていたんですか?」


どうやら、私が勝手に彼のテリトリーに侵入したことが気に食わない、らしい。


「弁慶殿が帰ってくるまで待つように、私が言ったんです」


朔ちゃんが横からフォローしてくれて、ようやく視線が外れた。


「…ご苦労様でした。九郎、堀川に今すぐ戻れだそうですよ。あかりも付いてきなさい」


弁慶さんの指示に九郎さんは口に含んでいた和菓子を飲み込み、そうか、と腰を上げる。「では失礼しますね」と会釈した弁慶さんに続いて出ようと立ち上がったら、急に望美ちゃんが私の腕を掴んだ。


「弁慶さんっ!」


望美ちゃんが引き止めたのは弁慶さんだった。これは彼も予想していなかったのか、振り返った弁慶さんは目を丸くしている。


「あかりもここに帰ってこれないかな?あかりと私、やっぱり同じところから来たの」


望美ちゃんは、ぎゅうと私の腕に力を込めた。


「もしかしたら、一緒にいたら、何かわかるかもしれないでしょ。あかりが弁慶さんのお手伝いしてるのはわかってるけど、暇な時間だけでも…」


私は望美ちゃんたちと違って、神子や八葉という役目を背負ってない。だから、


「あかりもそうしたいんですか?」


弁慶さんの尋ねる声にびっくりして、すぐに反応できなかった。多分、弁慶さんは私と深く関わりたくないんだと思う。でも私が九郎さんや神子たちと親しくなれば、八葉である弁慶さんも無視しきれない状態になる。だから、私の意志を聞かれるまでもなく弁慶さんに拒絶されると思った。


「いえ、あの…私は堀川屋敷にお部屋をもらっているので、朔ちゃんにお世話になることはできません」

「あかりっ、遠慮なんてしないで!」


私にとって、望美ちゃんの申し出はとても嬉しいものだった。なんだかんだ言っても、異世界に一人きりでは寂しい。でも同時に、甘えてはいけないとも思った。望美ちゃんのように神子ではない。私は、私しかできないことをしなければならないと。


「でも少しだけ、お仕事の合間だけでもここに来ることを許してくれませんか。弁慶さんのお邪魔はしないと、約束しますから」


言って弁慶さんを見つめると、彼は驚いたように目を見開いた。


「…僕はあなたの保護者代わりですが、上司ではない。貴女が望むならそれを禁止する権利はありません」


しかしすぐに、顔を背けて元の冷めた表情を浮かべた。


「ただ保護者として条件です。どこかに行く場合は僕に声をかけなさい。いいですね」


相変わらず冷たい物言いだったけれど、許可が下りたことには違いない。私は望美ちゃんたちと、手を取り合って安堵に笑みを浮かべた。


100916



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