甘い本能 正ちゃんと白蘭の話。それが差すのはもちろん、白蘭さんの能力とそれに伴うパラレルワールドに関する話、そして私とメカにまつわるあの事実のことだった。 他の世界には私やメカが存在しない。スパナの横に私が居ることのないという事実。いまいちピンとこない話ではあったが、それでも、正ちゃんがはっきりと告げた以上それは真実なのだろう。 だからこそ不安になった。底なし沼をのぞき込んで居るような気持ちがした。 「…実は、たまに思うんだ。助手子がもし居なければ、ウチはどうしていたんだろうって」 スパナが一瞬手を止めたのが、背中越しにわかった。でもそれは一瞬のことで、すぐに彼は作業を再開する。そして淡々と、言葉を続けた。 「パラレルワールド。それ自体に特別興味はなかったんだけど、正一が時間に纏わる研究をしていたから…ぼんやりと考えることはあった。あり得ない話だとは思ったけど、題材としては面白いと思った」 「……」 「パラレルワールドは、こことは違う。いくつものもしもを積み重ねた、異なる選択の上に成り立つ世界だ」 「…うん」 私は、スパナの言葉を噛みしめるようにして聞く。彼の声は、聞いていて落ち着く。 「きっと、どこかの世界には助手子と出会っていないウチがいて、それでも変わらずにロボを作ってると思う。でもウチと出会っていない助手子はマフィアになることもなく、他の誰かと幸せになっていたのかもしれない」 「…そうね」 「昔、助手子を逃がそうとしただろう。だから余計に思う。本来助手子はマフィアにいるべき人間じゃないんだろうって」 覚えている。まだ、ミルフィオーレに入ってようやく馴染み始めたばかりの頃の話である。あのときスパナは、マフィアに私を引きずり込んでしまったことに酷く後悔していた。だから、白蘭さんの目を盗んで逃がしてくれようとしたのだ。 でも私は既にもう、安全な人生よりもスパナといることを選んでいた。だから、今もこうしてスパナといるのだ。 (もう遠い話だと思っていたけれど) あの時スパナは、逃がそうとしながらも結局私を手放せないと泣いたのだ。それが嬉しくて嬉しくて、でもスパナは優しいひとだから、未だに私の人生を奪ってしまったと思っていたのかも知れない。 けれども、スパナの続きの言葉は、思っていたものと違った。 「――でも今ウチの隣には、助手子がいる。それでいいと思う」 「え…?」 驚いて声をあげると、手を止めたスパナが私を振り返る。 「誰がなんと言おうと。天文学的確率だとしても、助手子はウチの隣にいて、そしてウチは幸せだ。助手子がいないのは、やだ。助手子と出会わない他の世界のウチはかわいそうだと思うけど、――今ここにいるウチは、助手子と一緒にいて、助手子を幸せにできる。それが真実、そうでしょ」 「スパナ…」 柔らかく微笑む彼に、心がじわりと暖かくなる。こみ上げる愛おしさに耐えきれなくなり、私は彼の頬を両手で包み込んだ。 「私もね、そう思うよ。白蘭さんがいうように、私がこうしているのはすごい確率なんだと思うの。私が想像つかない程の偶然が重なって、こうして、スパナと一緒に居られるんだなって」 その視線が、その声が、私を見つめる瞳が、なにもかもが、愛おしくてたまらない。もし彼と出会っていなかったら。そんなこと考えられない。だからこそ、感謝している。出会えたことに、私を見つけてくれたこの世界のスパナに、私はとても感謝しているのだ。 「だから私はすごく幸運で、こうやってスパナの隣にいることができて。そういうのって、きっと」 見つめ合う。スパナの硝子玉のような瞳に私が映っている。ゆるやかな動作でそれが近づき、私の唇を彼のそれが優しく啄む。 そして、私が言おうとしていた言葉をそのまま、彼が引き継いだ。 「運命、だな」 そう、運命だ。きっと私たちは運命で繋がっている。だからこうして出会った。だから、大丈夫。怖くないわけなんて、ないのだ。それでも前を向けるのは、ひとえに彼の存在だった。 「ありがとうスパナ。だいすきだよ」 言葉を返さない代わりにスパナはもう一度、やさしく私にキスをくれた。 それからすぐのことだ。山本さんが、明日が決戦だと伝えにきたのは。 でももう、私は迷わなかった。隣にある愛しいぬくもりを失わないために。未来への幸せを、勝ち取るために。 ただただ今は、生き抜けばいいのだ。 150705 |