仄苦甘い


潮風に、白いワンピースの裾がはためいた。


「銀ちゃん、ほら、波が凄い」


はしゃぐ彼女に微笑み、俺は「おー、転んで水浸しになるなよ」と茶化した。女は、子供のように頬を膨らまして抗議の目を俺に向ける。


「ならないよ、もう子供じゃないもん」
「なァに言ってんの、俺から見たらまだまだ子供ですー」
「もう成人だもーん」


そういう所が子供なのだと思ったが、口に出さないでおく。名前はヒールのついたサンダルを脱いで、波に足を浸した。俺は、笑みと一緒にため息をこぼした。


「おい、あんまりはしゃぐなよ、明日は結婚式だろー」


にっこりと笑って、名前は波打ち際を駆けていく。その左手の小さなリングに太陽が反射してきらり、とした。
雲一つないどこまでも広がる空を、地平線で交じり合う海と空の青を、俺はぼんやりと眺めていた。夏休みだってのに、この海辺には俺たちしかいない。寂しい海岸は、どこか現実味がなく滑稽だ。夏といえば海、海といえば海の家、騒ぐ子供。それが一切ないここは、俺の知る夏の海ではなかった。俺の着た、海侍のTシャツはまさに道化の衣装である。


(ここに、来なければよかった)


それは波が打ち寄せる度に湧き上がる感情だった。
海はきらいじゃないし、つれてきた名前は、誰よりも大切な女だ。だが心は、重力で引き寄せられるかのようにずっしりと重い。


(あァ、こんなことなら部屋でジャンプ読んでりゃよかった)


結婚式の準備があるから、と家に置いてきた神楽や新八を恋しく思う。俺も残りたかった、と思う反面当事者の俺がサボる訳にはいかないということもわかっていた。どうせ明日の式典で会える。奴らを恋しく思うなんざ、俺も末期だ。

塩気のある空気が鼻を掠める。ずん、と沈んだ心に、昔のことがしきりに思い出された。


「ぎんちゃーん」


思い出されるのは、まだ小さなあいつ。
背もちっさくて舌ったらずで無邪気に俺の足にからみついてくるあいつ。まだ女なんてものじゃない、ただの、餓鬼。人を疑うことをしらない笑顔に何度救われたことか。


「名前も、いつかは他の男の所に行っちゃうもんなー」


それは気まぐれに、戯れで言ったことだった。幼い名前は俺の言葉に首をかしげた。


「なんで?名前、銀ちゃんといるよ」
「そーゆーわけにいかないの。いつかは名前だって結婚するんだぞー」
「やだ、じゃあ名前結婚しない」
「そんなこといってー」
「名前、銀ちゃんと結婚するもん!」


子供が、お父さんと結婚すると言うようなものだとそうわかっていた。わかっていたのに、心のどこかで俺はその言葉にどきりとしていた。


「銀ちゃーん」


ふとわれに返ると、波音に混ざった声が俺を呼んでいた。
ぼんやりとしたまま手を振り返すと、女は嬉しそうにさらに両手を振る。


「銀ちゃーん」


名前はこちらへ駆けてこようとして、よろめき…こけた。


「おまっ、何こけてんだよ」
「へへ、冷たいや」


慌てて助け起こした俺に、名前は笑顔を浮かべた。昔からかわらない、無邪気な笑顔を。


「ねー銀ちゃん、わたしずっと、銀ちゃんと結婚したかったんだ」


その言葉に心臓が跳ね上がる。


「なァに言ってんの、花嫁が」
「でも本当にそうなの。銀ちゃんのことが昔っから大好きだったの」


懐かしそうに目を細めながら、名前は地平線を眺めていた。


「…銀ちゃんが幼いわたしを引き取ってくれたのは、わたしのお母さんのことが好きだったからでしょ?わたしのお母さんはお父さんに捨てられて、でも銀ちゃんはお母さんを愛してくれていたのよね」

「……」

「でもそのことに気づいたとき、とっても苦しかった。だってわたしも銀ちゃんが大好きだったんだもの。わたしは、銀ちゃんの優しさを、わたしに対する好意だと勘違いしてたんだわ」


ふふ、と可笑しそうに笑う。俺は押しつぶされそうな気分だった。


「名前、俺は」

「その時やっと、わたしも気づけたの。銀ちゃんはわたしのお父さんのようなものだもの。わたしの銀ちゃんに対する愛は、家族愛なんだって」

「…っ」

「ありがとう、銀ちゃん。お母さんを愛してくれて。わたしを育ててくれて」


そう言った名前は、本当に彼女の母親によく似ていた。まるで生き写しである。病気で若くして死んだ、あの女の。
名前が言うように、俺のこの感情はあの女に対する未練なのだろうか。名前とあいつをただ重ねているからなのだろうか。

…そうだったらどんなにいいと、願ったことか。

たしかにきっかけはあの女の死だった。あの女は綺麗で強くて、仲間としても最高の女だった。病魔に苦しめられ死んだ女、その形見の子を引き取ったのは、女に対する供養だと思ったからだ。
しかし、日に日に強くなる名前への想いは、本物だった。だから余計苦しくて、つらい。



明日、名前は結婚する。


俺とではない。他の、見知らぬ男とだ。
バージンロードを歩く名前の手を引くのは俺。俺はこの手で名前をそいつに渡すのだ。

俺は名前を愛してる。
でもそれは決して口に出してはいけない感情だ。墓場に入るそのときまで、俺は決してそれを口には出さない。


びしょぬれになった名前と手をつないで、俺たちは宿舎へ戻ることにした。空と海の青は相変わらず境が見えない。


「名前、幸せになれよ」


既に幸せそうに微笑む名前の手を握り、俺は耐えるように唇をかみ締めた。
名前の俺に対する甘い家族愛と、俺の名前に対する重い愛と、交じり合って仄甘苦い味になった。




仄苦甘い




080807 / ワルツ一周年



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