根拠のない



※邪魅の雫後




何時の間にか、彼は帰ってきていた。


「旦那様が帰りましたよう」


頼みもしないのに、和寅がそうわたしに伝えに来たのであった。和寅は、彼のことは何事でもわたしに伝えなければならない、または彼とわたしがそういった親しい関係にあると、思っているらしかった。

しかしながら、彼とわたしがそういった「契り」を結んだ事実はない。
だがいつまで経ってもわたしがそれを否定することができないのは、少なくともわたしは彼に対してそういった気持ちを抱いているからである。彼の方はどうだか知らないが。


彼、榎木津礼二郎は出掛ける前の様子がおかしかった。そのようにいうと「かの探偵、榎木津が可笑しいのは何時ものことだ」と言われてしまうのはにちがいないが、わたしが感じた「可笑しい」は彼が何時もと違い深く傷ついた表情(かお)をしていたからであった。

榎木津ビルヂングの階段を上がると、見慣れた【薔薇十字探偵社】の扉が現れる。

扉をくぐってすぐ、かの探偵が自分の椅子に腰掛けたまま、あれこれ益田に文句をつけているのがわかった。


「ああ、名前さんじゃありませんかあ」


益田がこちらに気付いて言った。わたしを目で確認した探偵――榎木津は、立ち上がると乱暴にわたしの手を引いてソファーに座らせる。


「お帰り、大磯の方に行ってたみたいね」


大磯の辺りで殺人事件があったと新聞で読んだ。大方、その事件に首でも突っ込んで(ついでにかき乱して強引に解決して)きたのだろう。が、彼は大磯と聞き一瞬不快そうな顔をした。出掛ける前の「可笑しい榎木津」の顔だった。ただしそれは一瞬で、彼はすぐに何時もの「変人榎木津」に戻る。


「そんなことはどうでもいいッ!名前ッ!ここで待ってろと言っただろう!」

「言ってたわ。でもしばらく帰って来ないようだから、家へ帰ったの」

「待ってろといったら待ってろ!出るな!馬鹿か!」


あまりの横暴さに、それは無茶ですよう、と和寅が口を挟む。


「無茶でもなんでも僕のいうことは絶対だッ!」

「まあ…今回の事については、名前さんはここでじっとしてくれなきゃ危ないところでしたが」

「どういうこと、益田くん」

「詳しくは言えませんが、そうですねえ…名前さんは榎木津礼二郎の未来の奥方だから、ですね。それこそ今回の件で被害を受けなかったのが不思議なくらいですよ」


榎木津は、うるさいうるさいナキオロカは黙ってろ余計なことを名前に言うな、と喚く。

どうやら大磯で起こった事件は今まで以上に危険で、榎木津にまで多大な影響を及ぼしたようだった。そういわれれば、益田の顔もやつれているようにみえる。

今回名前が同行を許されなかったのは、どうやら榎木津関係のものだったかららしいことはわかった。が、それ以上詳しくは聞こうと思わない。
中禅寺が絡んでいるだろう事件は部外者には理解し難いのだ。


「どうせ、あなたはわたしに何一つ教えてはくれないのでしょう?」


ただ、自分だけ蚊帳の外なのが悔しくて、その気はないがわざと口を尖らせていう。すると榎木津はこっちに向き直り、当たり前のように言った。


「名前は僕のものなんだから安心して隣にいればいいんだ」


榎木津はそう断言すると、わたしの膝を枕に横になる。
わたしは何故か、彼の根拠のない自信に酷く安堵した。





根拠のない




080224(邪魅の雫読破記念)
081030 /改



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