溶けだす夜明け



「助手子が食べたい」


スパナが言ったので、思わず緑茶を噴き出した。
眠気の募る午前二時。新型モスカの試運転を明日に控えた私達は、スパナの的確な指示の下徹夜覚悟で作業に当たっていた。しかしながら流石に夜も更けて、朝からほとんど休みなく働きづくだったことも災いしサポートに徹する私にもひたひたと睡魔が押し寄せる。一息つこうと淹れたお茶にも手を着けず熱心に作業するスパナとは大違い。もっとしっかりしなくちゃなぁ。ぱんぱんと両手で頬を打ち気合いを入れ直した数分後。キーボードを叩くスパナの手が、二時間振りに静止した。そして掛けられたのが、眠気も覚めるその一言だ。


「ちょ…え?すすスパナ?」
「だから、味噌汁が飲みたいんだ」
「あぁ…味噌汁、味噌汁ね」
「助手子が作ったやつがいい」


だったら作りますけどね。あぁびっくりした驚いた。言い間違い、にしては心臓に悪すぎる。それでいて当の本人は全くの無意識無自覚なのだから、ここは敢えて突っ込まずスルーした方がいいだろう。
びしょ濡れの卓袱台を拭きながら溜め息を吐いた私には目もくれず、スパナはゆっくり立ち上がりうーんと大きく伸びをする。猫みたいに細められた二つの目が、あどけなくて何だか幼くて…て、違う違う見とれてる場合じゃない。味噌汁、味噌汁を作らなきゃ。


「ご希望の具材とかあったりする?」


早速冷蔵庫のドアを開け食材選びを始めた私の背で、ゴーグルを外した彼が、そうだなぁと悩み出す。


「お豆腐あるよ」
「じゃあそれと、ワカメとナメコを入れて欲しい」
「なめこ?…なんてあったかな」
「ある」


あ…本当だ。異国の地イタリアの冷蔵庫に豆腐や味噌が入っているだけでも十分驚いてしまうのに、なめこが入っているなんて…スパナの日本通恐るべし。
嬉しそうに隣に寄ってきて真空パックを開ける私の手付きをじいっと眺めているスパナ。ざるに上げ水洗いして、次は豆腐…と手を伸ばすと、シンクに置かれたなめこを摘み上げ興味津々に眺めている。


「これは、生で食べられる?」
「駄目駄目、お腹壊しちゃうよ」
「ふーん…噂通りだな、ぬるぬるして気持ち悪い」
「食べたら病み付きになるんだって」


そうか。とじっくり頷いて、腕を組みながら瞬きする。それを横目にまな板で豆腐を賽の目に切ってゆき、水を張った鍋の火を入れる。だしからきちんと取らなくてはとスパナから注意されて以来、いりこや鰹節、昆布に至るまで常備されているこのキッチンは、さながら日本と変わらない。下手すれば日本よりも日本らしい食材や道具に溢れている。


「ついでだから何かもう一品、スパナの好きなもの作ろうか」
「いいのか?」
「うん。あ…だけど、簡単な料理限定ね」


美味しいだしが取れるまでもう少し時間がかかるから。振り返りちらりと見上げると、ぱっと顔を輝かせ嬉しそうに悩むスパナがいて。


「玉子焼き」
「え…それでいいの?」
「助手子の作った玉子焼きがいい」


なんて、さらりと呟いて冷蔵庫を開けるその仕草。鼻歌混じりの横顔は、今更だけどやっぱり気恥ずかしい。彼には何てことのない一言や仕草一つでも、私にはいちいち一大事。嬉しくて、ほっこりあたたかで、くすぐったくてそわそわ落ち着かない。いい加減慣れればいいものの、それもこれも全部この人がいつだって唐突すぎるせい。私をうんと甘やかし、うんと優しすぎるせい。分かってる。スパナは優しいから。私じゃなくても誰にでも平等に優しくて穏やかで、こんな風に平然と喜ばしいことを口にして、人を嬉しくさせるのがとても上手な人なのだ。


「分かった、じゃあすぐ作るね」


卵を差し出したスパナの目を上手く見れずに受け取って、煮立った鍋に目を落とす。もうすぐ、いりこを上げなくちゃ。
そろそろだな。と頷く彼も同じことを思っていたらしい。こうして鍋を見守りながら二人並んで立っていると、ここがどこで何をする場所なのか忘れてしまいそうなくらい穏やかだ。スパナがマフィアの技術者で私がその助手だってことも、危うく忘れてしまいそうになる。


「なんか、新婚みたいだな」
「…え」
「ウチが旦那で、助手子が奥さんで」
「あ…うん、そうだね」


って、意識しない意識しちゃ駄目だ。どうせスパナのことだから、意味なんてない。有り得ない。私の偏見かもしれないが、外国人はすぐにこうやってどきっとするような冗談を簡単に口にしちゃうのだ。
分かってはいても未だにこうやって動揺する私も私だ、けど。


「助手子はいい奥さんになるな」
「…っ」
「味噌汁はウチが見てるから、助手子の担当は玉子焼き」


そうだね、じゃあお願いね。駄目押しのような一言にいよいよ熱くなるほっぺたを気付かれないよう俯いた。卵をこんこんとぶつけながら、頭の中に広がったもやもやを隅に押しのける。砂糖と塩を一摘み。薄く味付けした卵をかき混ぜて、熱した四角いフライパンにそうっとそれを流し入れる。焦げないように注意して熱心に見つめる私の隣には、同じく熱心な顔をして鍋をかき混ぜるスパナがいた。


「スパナ」
「ん」
「スパナもさ、きっといい旦那さんになるんじゃない」
「そうか」
「うん」
「…なってほしい?」
「え」
「…助手子が言うなら、なってみせる」
「…」
「ナメコ取って」


あ…はい。て、そうじゃない。スパナ、今何て言った…?なってみせる、ってどういう意味?確かめようにもどきどきと心臓が騒いで邪魔をする。そういう意味、じゃないのかな。違うよね、うん。そうじゃない。
慌ててフライパンを持ち上げて火から離すと深呼吸。湯気を立てる鍋から目を上げて口元を緩めたスパナには、やっぱりかないそうにない。





溶けだす夜明け



100429

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「水蛇」の蜂田さんが書いてくださいました…!
ま、まさか憧れの蜂田さんに書いていただけるだなんて、本当もう夢のようです!うちの子たちってこんなに可愛かったかしら、床を転げまわりながら読んでしまいました、素敵な贈り物ありがとうございました!我がサイトの宝物です^^
掲載許可をいただいたので、飾らせていただきました!ありがとうございました!




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