我が目を疑った。嘘でしょって叫びたくなった。でも身体は動かなかった。人はほんとうに驚くと叫ぶことも逃げ出すこともできなくなる。身を持って知った。
 先生に叱られながらも本を返して、急がなくてはと思って、普段使われていない教室の傍を通ろうとした。先ほども言ったように、その教室は授業でも委員会でも使われていないところで、色々な噂が立っているものの、一番有力な仮説は「ドアのたてつけも悪いし天井も壁もぼろぼろでちょっと騒いだら崩れそうだし、なんか危険そうだから」。つまりみんなこの教室の存在を知っていても、近道として使える場所だと知っていても、この教室を避けて学校生活を送っているのだ。そんな教室でわたしが目にしたのは、悪質としか言い様のない「いじめ」であった。


 人が殴られている。大勢に蹴られている。あの子だ。桐生だ。桐生の制服は乱れていて、あんなにひどくされてはきっと痣だってたくさんできているであろう。あれは同じ人間か。数の暴力を行使しているあれらは、わたしと同じ人間なのか。ぞくりと背筋が粟立つ。わたしは言葉を失って、呆然と突っ立っていた。


 桐生のうめき声ではっと我にかえる。助けなくては。「泣いちゃってぇ。何可愛こぶってんですかあ」「あは、ぶれてねえし」「可愛いってか醜い?」「まじむかつくんですけど」それから、鈍い音。苦しそう。だめ、だめ、こんなのは、


「何をしてるの……」


 わたしの声に、彼女たちは怯んだが、わたしをサッカー部のマネージャーの綿貫だと認識すると、すぐに安心しきったような表情になった。


「なんだぁ、綿貫さんかぁ。見ての通り、制裁でーす」


 語尾にあわせて、床に転がった桐生の腹が蹴られる。それから笑い声がはじけた。なんだこれ。何も面白くないし笑えない。これが、人間のすることなのか。


「青子ちゃんもコイツに酷いことされたんでしょー?」
「スパイ呼ばわりだっけぇ。マジねえわ」


 いや、わたしからすればあなたたちのそのスカートの短さが「ねえわ」なんですけどね。勿論そんな台詞は口に出さずに心の中にとどめた。頭を振って自分に言い聞かせる。冷静になれ、がんばれわたし。


「それは、否定できない、けど。違うでしょ、どうしてこんなことしてるの」
「どうしてって」


 彼女たちは一瞬心の底から「どうしてだろう」という顔をした。それから顔を見合わせる。「なんでって」「別に、当然でしょ」「キモいから?」「そうそうそれ」なんだこいつら。


「キモかったら蹴っていいの?お腹はだめだよ、ほんと、死んじゃったらどうするの」


 わたしの言葉に白けたような空気が流れる。リーダー格なのだろうか、さっきから彼女たちの中で一番意見を尊重されているっぽい子がつんと顎を上げて言った。


「死んじゃえばいいじゃん」


 頭が真っ白になった。どういうことなのまじお前ら意味わからんわ。桐生はさっきから一言もしゃべらない。もしかして気絶してるのか。そうかもしれない、ああも暴力を振るわれては意識を保っている方が珍しいだろう。


「だめだよ、こういうの。殴るとか蹴るとかじゃいけないよ、わたしたち人間なんだから、せっかく言葉があるんだから、文句を言おうよ」


 リーダーが嘲笑った。わたしのほざいた綺麗事を。怖くなって下唇を噛む。でもここで逃げ出しちゃいけない、そんなことでは、とぐるぐる考えていたら下から声が聞こえた。桐生である。


「あんた馬鹿じゃないの、なんであたしを庇うわけ。ほんとに頭悪い」


 顔を上げた桐生を見てぞっとした、完全に、子供のそれではなかったからだ。一体どうすればいいんだ。わたしは何をしたらいいんだ。なんと言えばいいんだ。どうすればこの子を助けられる?やけに冷静な頭は、動かないわたしの身体を置いてけぼりにして、くるくるとよく回った。きっとこれは今まで怖がってなにもせずに逃げてきたわたしへの罰なのだ。半ば絶望しながらぼうっと窓に目をやる。グラウンドが見えた。みんなは今きっとサッカーをしているのだろう、桐生がこうして苦しんでいるなんて知らずに。どうしようもない虚無感に襲われた。


「あれ、何してんの君ら」


 なんとも間の抜けた声がした。驚いて勢いよく振り返ると、マックスと半田がいた。半田はぽかんとして、それからあわてて教室の中に入って何が起こっていたのかを確認すると、叫んだ。「先生呼んでくる!」






 女の子たちが騒ぎ出す。「やばいよやばいよどーすんの」「知らないよ!逃げちゃおうよ」「でも見られてんじゃん、桐生見られたら一発でばれるよリンチだって」「じゃあどうすんのよ何かいい案出してよ」「わかんないよどうしよう」マックスは相変わらずの様子で教室を眺めている。慌てる女の子たち、倒れている桐生、それから呆然としているわたし。マックスはわたしを見るとにやりと笑った。


「綿貫は参加しなかったの?」
「何言ってんのするわけないでしょ」


 こんなゲスいこと。 そう続けると、少しの間をおいて、マックスがまた笑った。


「綿貫はそうだよねえ。安心した。 そうそう、僕ら、綿貫があんまり遅いから見て来いって、染岡にパシられたんだ」
「え」
「染岡に感謝、……なのかなあ。厄介事に関わっちゃったなあ、あーあ」


 皮肉でもなんでもなく、マックスは心からそう思っているようだった。女の子たちがマックスを押しのけて教室を出ようとする。でもマックスは彼女たちを突き飛ばした(といっても本気ではない、怪我をさせる気はなさそうだった)。それから冷たく言い放つ。


「逃げられると思ってんの?曲がりなりにも桐生はウチのマネージャーなんだけど。サッカー部の奴をいじめたんだよ君ら。わかってるよね」


 ひ、と彼女たちが息を呑む音が聞こえた。可哀想になあ、マックスって怒ったら怖いもの。現実逃避していたら、ばたばたと足音が近づいてきた。それから一人分なのに騒がしい声。「先生こっちです!」



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