※まだ鴨川ジムに居たころのはなし





つまるところ彼はシャイボーイなのであると、気付いたのはつい最近のことだった。



ジムで雑用をするというのは、案外肉体労働で、しかしやはりその分金になるので、マネージャーというバイトはこれでなかなかおいしいではないか、とほくそえむ日々が続いていた頃のこと。わたしは宮田くんが移籍するのと同時期に、家庭のごたごたでバイトを辞めてしまったので、その後のボクシング事情などなどは詳しく知らないのだが、彼の人見知りは治ったのだろうか。それだけが心配である。





「青子ちゃん、バケツバケツ!」


篠田さんの大声に、慌てて駆け出す。幕乃内くんが鷹村さんに殴り倒されたのである。とは言ってもただの暴力ではなく、勿論練習の流れの中でなのだけれども、彼ならわがままで殴り倒しかねない、特に青木さんあたりを、と考えてぞっとした。どうかそんな場面が、わたしの居る平日に繰り広げられることのないようにと、密かに祈りながら、蛇口を全開にした。ら、ドアが開いた。


「あ、宮田さん」
「・・・綿貫さん」


ふいと顔を逸らされた。・・・嫌な奴。口には出さずに心中で呟く。ボクサー相手にそんな喧嘩を売るような馬鹿ではないので、あくまで心の中で。・・・なんだか情けなくなった。


「また鷹村さんか」


ここまで聞こえてくる、そのくぐもった喧騒から推測したらしい、なるほどこれはよくある事態なのか、心を鍛える必要がありそうだ、とひとり頷いた。すると宮田さんがこちらを振り向いて、「おい、蛇口」と言った。


「え?あ、ああ、ほんとだ」


既にバケツからは水があふれ出していて、あわててバケツをずらす。それから蛇口を閉めて、バケツを持ち上げようとした。「んぐう」気持ちわるい声が漏れた、宮田さんの失笑が聞こえて、無性に腹が立った。そこではたと気付く、両手でバケツを持ってしまっては、ドアが開けられないではないか。一瞬迷ったその隙に、宮田さんは隣に来ていた。


「俺が持っていくよ」
「え、いやいやそんな」
「そのへんでぶちまけられても困るからな」


む、嫌な奴、と思ったが、取っ手に伸ばされた腕を払いのけようとわたしも腕を伸ばした。別にそれはツンデレ的な行動でも、お前の優しさなんぞ要らんわという拒否でもない、ただ、闘うためにあるその腕を、こんな雑用に使わせたくないと思ったのだ。しなやかな筋肉のぶつかり合う、単純に強さを求めて闘う彼らの姿が好きだから、このバイトを始めたのだ。


「あ」


わたしには他意などなかった、と断言しておく。少女漫画のベタな展開のように、図書館で同じ本に手を伸ばす少年と少女を想像してもらえれば一番いいだろう。要するにわたしの指先が彼の腕に触れたのである。わたしは言葉のとおり、あ、としか思わなかったが、彼はどうも違ったらしい。彼の「あ」は焦ったような響きすら込められていて、それこそ初心な童貞かよと突っ込みたくなるほどに、顔を真っ赤にして、わたしが触れてしまった右腕を掻き抱いていた。


なんだこいつ。


訝って、彼に視線をぶつける。そして驚いた。彼は真っ赤な顔で、潤んで見開かれた瞳で、わたしをじっと見つめていた。・・・これではまるでわたしが彼にやらしいことをしたみたいではないか。こんなところを鷹村さんや木村さんに見られては、わたしの立場が危うい。金も危うい。それはよくない。それに、居心地が悪くなったなんて下らない理由で、ボクシングの傍から離れるのは激しく不本意である。わたしは極力真顔でバケツに視線を遣った。今度はスムーズに、彼がバケツを持ってくれた。わたしは身体を端に寄せ、ドアを開ける。






ばしゃあ、と水の音。それから、うう、と幕乃内くんのうめき声。宮田さんは、仰向けになった幕乃内くんをじっと見ている。先ほど見せた動揺の影は、跡形もなく消え去ってしまった。なんだか勿体無い、あれほどまでに見た目も技も美しい彼があそこまで取り乱す姿を、まさかわたしなんぞに晒してくれるとは。取り止めもないうえに下らない考えをめぐらせているうちに、幕乃内くんがぱっちりと目を開けた。


「みっ、宮田くん!?」


なんだその飛び起き方、と、宮田さんを含む鴨川ジムメンバーが苦笑する、宮田さんに至っては半身引いている。そりゃそうだ。みんなが目を見交わして彼らの心配を言外に表す。そんな中、宮田さんと目が合った。途端に彼が顔を真っ赤に染める。え、おいまさかお前ここで発動するかい、とわたしの動揺なんてみんな知る由もなく、真っ先に反応したのはやはり鷹村さんだった。そこから先に地獄絵図を語るだけの気力なんてわたしには残されていないので、ここで話を終わらせてもらうことにする。




――――――


という女性恐怖症宮田妄想のかたまり
title:ジャベリン






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