世間一般で女の子が恐ろしがって然るべきであるもの、古今東西。例えば幽霊。暗闇。不審者。雷。蛇。その他もろもろ、エトセトラ、恐怖の象徴たるそれらに対して、なぜだかわたしは恐怖を感じない。不思議な話である。


「へえ。つまり怖いものがないと?」
「そうは言いませんけれど……だって怖くないんです」


 だって獄卒が幽霊を怖がっていちゃあ仕様がない、裁くべき相手を恐れていて、何が鬼か。というかむしろ、彼らには怖がられる側だろう、わたしたちって。そう言えば、鬼灯様はなるほどと頷いた。「可愛げはないかもしれませんが仕事熱心なのは何よりです」むむう褒められてるのかけなされてるのか。


「それならば暗いところなんかはどうですか?」
「別に、です。最近は残業続きで帰りも遅いですし、怪しい輩に遭ったところで騒ぐ必要もないでしょう?暴漢のひとりやふたり、はっ倒して見せますとも」
「おやおや物騒なことをおっしゃる」


 これも事実である。ついこの間、付き合いで飲みに出た帰りに露出狂にばったり出くわした。ただ裸であるだけの男に恐怖など感じようもないが、美しいわけでもない身体を無理やり見せつけられてそれまでほろ酔いだった気分がどん底まで落ちたので迷わず烏天狗警察に通報してやった。もちろん逃げられないように取り押さえてのことである。義経公が驚きながらも「ご協力ありがとうございます、怖かったでしょうに」とうやうやしく頭をお下げになったので、慌てて「いえいえそんな、露出狂なぞにひるむほどヤワな教育をしない上司が居ますので、彼のお陰でございます」と言えば、彼は納得したふうに二度ほどうなずいた。そのことについては鬼灯様に内緒である。


「ということは雷やら爬虫類やらも平気なんでしょうか」
「ええ、まったく」


 雷に怯えるなんて意味がわからない、轟音に驚きこそすれど、怖いと感じたことは一度もない。ましてや爬虫類だなんて、かえって可愛いではないか。特にお気に入りなのはヤモリちゃんである。あのきゅっと縦に長い瞳がたまらない。ひそかに思いを馳せていると、わたしと鬼灯様と、その間に積み上げられた書類の影から、何かが飛び出した。それの正体を認識するや否や、鬼灯様から頂いた最中を握りつぶして立ち上がった。
 蜘蛛である。


「……なまえさん?」
「ほ、鬼灯様、ありました、こわいもの」


 きょとんと首をかしげる彼の視線を誘導すべく、震える指で机の上を指した。切れ長の瞳がそれを追って、爪の先の延長線上に居たそいつを見て、わたしを見上げた。


「蜘蛛、ですか」
「だめなんです、必要以上に脚がある生き物は、だめなんです」


 柄にもなく涙声になってしまって恥じらいを覚えたがそれよりも恐怖が勝る。さっきまであれほど自虐を混じえて武勇伝を語っていたというのにその勇ましさ(あるいは、女らしさのなさ)はもう見る影もなく、我ながらこの変わりようには呆れてため息すら出る。しかしその前にまずは退治だ。視界に奴が居る限りはわたしに安寧など訪れない。さっき書き損じて無駄にしてしまった一枚の書類を手に、うちわのようにして蜘蛛を風で飛ばそうと試みた矢先、ぺた、となんとも間抜けな音がした。彼の手が、蜘蛛の上に屋根を作るようにして机に置かれた音だった。


「ななななな何してらっしゃるんですか!蜘蛛ですよ蜘蛛!」
「私は別に怖くないので」
「わたしが嫌なんです!早く逃がさなきゃ」
「蜘蛛は縁起のいいものですから大切にしなければいけませんよ、めっ、です」


 母親のようなことをおっしゃる。会いたくて会いたくてではなくて恐ろしくて恐ろしくてというまっとうすぎる理由で震えているわたしをよそに、彼はなんとてのひらに蜘蛛を載せて、ぽいと部屋の隅へ放ったのだった。


「お、表に出さないんですか!」
「あれ、知らないんですか?蜘蛛って害虫を食べてくれるんです。ゴキとかハエとかそういった類の」
「へ、へえ……」


 それは知らなかった。がしかし、未だに涙目のままであるわたしを撫でようとする彼の手を、ほとんど反射で払い除けた。目を見開いて叩かれた自分の手を見つめる彼に、申し訳なく思うも、こればかりは譲れない。


「手、洗ってきて」
「なまえさん……」
「蜘蛛を触った手で触られたくありません」


 きっぱりそう言い放つと、彼は黙って立ち上がり、お手洗いへと向かったのだった。心なしかその後ろ姿がしょぼくれて見えたので、帰ってきたら存分に撫でられてあげようと思った。





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