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※社会人
1
彼女の生活は凄惨なものだった。彼女の家庭は罵声と暴力であふれていた。二十年にも満たないほど短い人生の中で、彼女が覚えたこととは、「大人しく従うこと」と「口を出さなければ大抵のことは収まること」であった。母親を早くに亡くし男だらけの家の中で、彼女の扱いはもはや人間のそれではなかった。学校に通いながら家事をすべてこなすなんて、並大抵の人間では不可能であるから、もしかすると彼女はいつしか人間ではなくなってしまったのかもしれない。
そんな彼女の悲しい性質に、男を見る目がない、というものがあった。惹かれる男はみな、いわゆる「だめんず」という奴であった。借金を抱えていたり、ギャンブラーだったり、暴力男だったり、エトセトラエトセトラ。大学には行かず、高校卒業後すぐに働いた彼女の、給料の大半、いや、ほとんどは、そのダメ男たちに費やされた。何度恋を繰り返してもそんな男に引っかかってしまうので、彼女はもう、自分はそういう星のもとに生まれたのだと諦めることにした。
それが、みょうじなまえという女のこれまでの人生である。
彼女の前に現れた、今までと違う男というのが、縁下力という人物であった。
2
出会いは、さして特別なものではなかった。彼女の家のすぐそばのコンビニがその舞台である。
その日は雨が降っていた。彼女は仕事帰りに、冷蔵庫が空っぽだったことを思い出し、夕飯のためにおにぎりとサラダを買いに来た。コンビニに入った時には小雨程度だったはずの雨が、用事を済ませて出ようとすると、とたんにバケツをひっくり返したような大雨になったのだ。こういうところも、彼女はつくづく運がない。ため息をこぼしながら、持っていたビニール傘を差そうとしたその時、後から出てきた男の、驚いたような声が聞こえたのだった。
「え、うそだろ」
何事かと思い振り向くと、その男は傘立てを漁っている。どうやら傘を盗まれたようだった。ジャケットを腕から下げ、スラックスの裾はすっかり濡れてしまっている。ワイシャツが乾いたままであるところを見るに、来るときには大きな傘で雨を防いでいたのだろう。シャツもジャケットも汚れてしまうのは、たいへんに面倒なことだ。彼女はおずおずと、その男に声をかけた。
「あの」
彼女を見た男の目が、あまりに優しい色をしていたものだから、彼女はまごついて、それからやっと、傘を差し出した。
「これ、よろしければ、どうぞ。安物なので、お気になさらず」
「え、いや、そんな。だって、そしたらあなたはどうするんです」
彼の疑問はもっともだった。自己犠牲もいいところだ。しかし彼女は自宅の方向をゆびさして、なんでもないような顔をして、「わたしは、すぐそこなので。大丈夫です」と言った。その声の、儚さといったら。男はなんだか、俺が守らなければ、もしかすると彼女はこの短い道中で、うっかり死んでしまうのではないかという妄想にかられてしまって、傘を押し付けて去ろうとする彼女の腕をつかんだ。
「じゃあ、あなたの家を経由して、帰ります。傘はまた後日、返しに行きますから」
彼女は大きな目を一度、二度とまばたいて、怪訝そうな顔をしてうなずいた。彼女はそれまで、こんな優しさをくれる男に出会ったことがなかった。だから、男の差し出したそれが、親切であると、すぐには気付くことができなかったのだ。
3
それから付き合うまでに、時間はかからなかった。縁下という男がわりと積極的だったことと、なまえという女に断るというカードがなかったことが主な原因である。
なまえは戸惑った。縁下の与える優しさすべてに。
仕事が遅くなると言えば職場まで迎えに来てくれる。泊まって、セックスですっかり疲れてしまったなまえが、翌朝寝坊しても、叱らない。それどころか、朝ごはんを用意して、なまえが起きるまで待っていてくれる。なまえにお金を要求しないどころか、プレゼントまでしようとする。
なんだ、この男は。
なまえの中で、不安がふくらんでゆく。当然、縁下を好きだという気持ちに嘘はない。だがそれ以上に、こんなに幸せでいいのだろうかと、まさかこの生活がずっと続くはずはないと、恐怖にも似た感情がなまえを蝕んでいった。
「おはよう、なまえ」
例のごとく、目を覚まして上半身を起こしたなまえに、縁下がやわらかく声をかける。もう昼に近い時間だ。血の気が引くのを感じて、「ごめんなさい、わたし、こんな時間まで」となかば叫ぶように謝る。
「はは、元はと言えば、俺が悪いんだから。ごめんね、あんなに激しくして」
しれっと吐かれた言葉に、一拍遅れて、なまえの顔が赤くなる。肩にかけられた毛布の下で、いつのまにか着せられていた服の裾を握りしめて、縁下の顔から目をそらす。
「かわいい、赤くなってる」
縁下が、手に持っていた皿をテーブルに置き、なまえのそばにかがむ。ちいさな顔を両手ではさみこんで、ついばむようなキスをする。なまえは、逆らえない。なぜなら、今までそんなこと、してこなかったから。どんなに不安があっても、恐怖があっても、甘んじてそれを受け入れる以外に、成す術を知らなかったのだ。
4
「おう、久しぶり」
酒とたばこで潰れたその声は、なまえの嫌な記憶を引き出した。昼も夜も暴力を繰り返し、もう搾り取れる金もないと分かった途端になまえを捨てた男だ。最初は間違いなく恋だったはずなのに、いつしかそれは服従へと変わっていった。なまえが身体をこわばらせたのを見て、縁下が庇うように前に出る。
「何だよオ新しい男出来たのか」
なまえの頭からつま先まで舐めるように見て、はん、と鼻で笑った。耳にいくつも下がったピアスのはじく光が、ぎらぎらと目を刺した。
「ちょっと、スタイルよくなったなァ、お前」
にたにた笑って、「じゃあな」と言い残し、男は背中を向けた。猫背でがに股の、みすぼらしい恰好をしていた。どうして、一度でも、あんな男に惹かれたのだろう、と、なまえは自己嫌悪に陥った。
その日縁下は、何も聞かなかった。いつもどおりに過ごしたし、映画を見るときもその帰りも、ずっと手をつないでいてくれた。けれど、夜はひどかった。暴力こそふるわなかったものの、なまえの身体を押さえつけるようにして、労りのひとつもないセックスをした。
5
「結婚してください」
差し出された小さな箱の中身は、開けずとも分かる。夕飯を終えて、しばらくしたときのことだった。ふたりが同棲を初めて、半年が経とうとしていた。
「なまえのこと、幸せにする。……違うな、……なまえ。俺と一緒に、幸せになってください」
どことなく、朝から緊張した様子だったのはこのためだったのか、と、いやに冷静な頭で考えた。なまえはそのおしゃれな小箱と縁下の顔を見比べ、ぼろ、と涙をこぼした。元々家庭を持つことに対して前向きになれなかったなまえだが、縁下が望むなら、それもいいかもしれない、と思ったのだ。もしかすると、このひととなら、幸せになれるのかもしれない、と。
「わたしで、いいなら」
歔欷を必死に飲み込んだ、きれいとは到底言い難い声で、返事を絞り出す。なまえがついに両手で顔をおおってしまったのを見て、縁下は微笑んだ。なまえが泣き止むまで、隣で、ずっと背中をなでていた。それはもう、ふたりにとって、これ以上ない至福の時であった。
6
「力さん、わたし、仕事辞めたい」
それはなまえの初めての主張だった。それまで何もかも、重要なことのほとんどの判断を他人に委ね、自分の意見などないようにふるまってきたなまえの、勇気を振り絞った主張だった。
「……俺は、構わないけど、一応、理由が聞きたいな」
縁下は箸を止めて、なまえを見つめた。そして、握りしめられた小さな手の、ゆびさきが白くなっているのに気付き、ああかわいそうにと目を細めた。
「わたし、おうちのことに、専念したいの。もちろん、力さんの家事に不満があるとか、そんなんじゃなくて。わたし、力さんが帰ってきたいって思えるような、おうちを作りたくて」
そこまで言うと、なまえは泣き出してしまった。育ちの特殊さから、なまえのこころが不安定であるのは、本人以上に縁下が深く知っている。焦らせないよう、うなずいて、なまえの言葉を待つ。
「今まで、家事は、わたしにとって、やらなきゃいけないことだったの。でも、力さんのために、初めて、家事をやりたいって、思えたの。料理も洗濯も掃除もぜんぶ、わたし、力さんのためにやりたい」
泣きながら言うには、あまりに甘い言葉だ。縁下は眩暈すら覚えながら、身体を熱く沸騰させるような愛しさを、どうにかやりすごす。すぐにでも抱きしめてキスをして、愛していると伝えたいが、今はそれをするタイミングではない。グラスの麦茶を一気に呷って、「いいに決まってる」と言い切った。なまえの鼻声の「ありがとう」に、指先がしびれるような感じがして、縁下は唾を呑みこんだ。
7
なまえの様子がおかしい、と気付いたのは、朝のことであった。視線が合わない。合ってもすぐにそらされる。態度がよそよそしい。時間がなかったので、何かあったのか尋ねることも出来ず出勤した。公私混同はいけないと分かっているのだが、どうにも仕事が手につかない。ふわふわしたまま仕事を終え、帰るなり、真っ青な顔のなまえが玄関に突っ立っていて、ぎょっとした。
「どうしたの、顔色がひどい。体調でも悪いの」
「ごめんなさい」
唐突な謝罪に、背筋が凍った。まさか、離婚でも切り出されるのかとひやひやして、なまえのくちびるの動きに注目する。
「子供が」
「子供、子供がどうしたの」
「子供ができたの」
その言葉を、かみ砕いて、反芻して、手に持っていた鞄を落としてしまった。音にびくつくなまえを、きつすぎないように抱きしめて、背中をなでる。
「力さん」
「どうして、ごめんなさいなんだ。うれしい、うれしい、うれしいよ、なまえ」
ほそい腕が、縁下のシャツを握る。震えている。ちいさな手を自分のそれで包み込んで、あたためる。
「わ、わ、わたしが、お母さんなんて」
「そんなこと、俺だってそうだ。どっちも初心者だ。みんな最初はそうなんだよ」
「でも、わたしは」
なまえの言わんとしていることは分かる。なまえは、幸せな家庭を知らない。作り方どころか完成図すら見たことのないなまえは、自分がそれを作れるのか、不安で不安でしょうがなかったのだろう。いくら知らなかったとはいえ、一晩か二晩か、なまえをこれほど不安にさせたままほったらかした自分を、縁下は殴りたくなった。
「なまえ。聞いて。俺はうれしいんだ、幸せなんだ」
「子供が、できたのが?」
「そうだ。俺となまえの子だ。俺と、なまえの」
そこで、耐えきれずに、嗚咽が漏れた。縁下の顔を見て、なまえの目に涙がたまる。玄関先で、靴も脱いでいない男と、エプロン姿の女が、抱き合って泣いている。傍から見ればさぞ滑稽だろう。それでもふたりは、幸せだった。守るものが増えることは、世の中の何よりも輝かしく、素晴らしいことである。ふたりはそれを、噛み締めている。