君は涙に溺れた




 塾終わりに雨に降られて、あいにく傘なんか持っていなかった俺は、塾の屋根の下から走り出そうと空を睨んでいた。後から出てくる塾の友達も、同じように空を見上げて、受験生に風邪引かす気かよ、と肩を落としていた。いつもは何ともない自宅までの距離が長く感じられて溜め息を吐く。ついてないなぁ、と隣で新居が愚痴を溢した。

「お前、車だろ」

「ま、そうなんだけどよ」

俺が睨んでも気にした様子もなく気楽そうに言った奴は、乗っていくかと親の車を指差した。

「いや、いいよ、大体軽トラに3人は乗れねぇって」

ライトをちかちかと点滅させて息子を急かす新居の父親の愛車は、2人乗りの軽トラだった。

「何かわりーな、」

「いいって、それより待たせちゃ悪いだろ」

また明日と別れの挨拶を残して走り去った軽トラを見送ってから、俺はもう一度空を睨んだ。どんよりと灰色の雲が、雨を途切らせることはない。

「――なぁ、」

今度こそ雨空の下へ走り出そうと体勢を整えたところで、後ろから聞き慣れない声がかかった。

「傘、ねぇの?」

振り返ったそこには、塾で見かけたことのある長身の男が立っていた。確か、俺と新居とは別のクラスの奴だ。

「え、あぁ、持ってきてなくて」

「これ、使えよ」

そいつが手にしていたビニール傘を差し出されて、俺は戸惑った。名前も知らない奴から傘を借りるのはなんか忍びない。それにそいつは、ビニール傘以外に傘を持っていなかった。

「俺、家すぐそこだから」

断ろうとした俺を制して、そいつは笑った。男の俺でも見惚れるような、男っぽい格好良い笑みだった。

「じゃぁな」

俺がその笑顔に見惚れている間に、そいつは俺の手にビニール傘を押し付けて、走り出した。ぱしゃぱしゃと水を跳ねる音が遠ざかっていく。

「あ、おい…!」

そいつが曲がって見えなくなった道の角と、俺の手に残された傘を交互に見て、俺は躊躇ったあと傘を開いた。雨が傘を叩く音に混じって、心臓の音がいつもより大きく感じた。











「なぁ、」

からからに晴れた空を見上げながら、俺たちは大学の中庭のベンチに座っていた。

「何であの時、傘貸してくれたんだ?」

「あー、そうだな」

あいつは俺の隣で、同じように空を見ていた。

「藤堂が濡れそうだったから」

雲すらない青空も、夕方には怪しくなって夜には雨が降るだろうと、天気予報のお姉さんが真面目な顔で言っていた。今は晴れているのに、天気って分かんねぇなとあいつが笑う。最近、あいつが笑うと心臓が五月蝿かった。

「明日は1日雨だってよ」

話題を変えたあいつに合わせて、俺は明日の天気の話を持ち出した。しかめっ面を作ってみせたら、あいつは笑って、俺の頬をつねった。

「どうせ休みだし、家から出ねぇだろお前」

「っ……、バイト、入ってんだよ」

本格的に心臓がやばいと思いだしたのは、ここ数日、こいつが俺に笑うたびに苦しくなるせいだった。ずっと俺の中に巣食っていた感情を、気のせいにするのを諦めたのも、同時だった。けれどそれだけ、今まで以上に、あいつが離れていくのが怖くなった。今まで以上に、あいつには気付かれてはならないと思った。

「コンビニだよな、確か」

「俺の家の近くにあるやつだよ」

俺もそう言えばバイトの面接だと思い出したように言ったあいつは、バイト上がりに家寄れよと俺に笑った。

「上がり夜だろ、飯食おうぜ」

料理をするあいつは、こうやって時々俺に手料理を振る舞った。あいつが作ったってだけでもう俺は十分なのに、その上それが美味いからずるい。

「なに、作ってくれんの」

「何が食いたい?」

さらりと言うあいつのそれが、優しさだと知っていた。俺に合わせてくれるのは昔から、初めて出会った高3の頃から、大学2年になった今までずっと変わらなかった。

「肉ー」

「お前いっつもそれだな」

こいつと出会ってから、思えばもう2年が経とうとしていた。大学の入学式でこいつを見つけて、俺と新居とこいつと、学部は違うけれどつるんで笑っていた。何がきっかけってわけでもなくただゆるゆると、俺の中でこいつと新居の立ち位置は違っていって、気がついた頃にはもう手遅れだった。

「んじゃ、明日はハンバーグな」

家の冷蔵庫の中身を思い出しながら1人ぶつぶつやっていたあいつが、俺を見てにやりと笑った。初めて言葉を交わしたあの日から、ずっと変わらないこの笑顔が、俺を掴んで放してくれないのだ。

「お前、いつまでたっても好みががきだからな、めちゃくちゃ美味い煮込みハンバーグ作ってやるよ」

子供扱いされているのは、日頃の接し方とかそんなんで薄々分かっていたし、今更どうということも無いけれど、これまで新居だとか他の友人にはそんな扱い受けたことなかったせいで、余計に俺とこいつが対等じゃないみたいな気がする。新居にはもっと投げやりで雑な接し方だってするくせに。多分、これは、嫉妬だ。ただ、こいつと対等な位置にいたいだけなのに。

「んだよ、拗ねんなって。好きだろハンバーグ」

俺の顔を見て、あいつが笑う。そうだ、ハンバーグは好きだ、がきの頃から。でもそれ以上に、お前の手料理が好きだ。お前が、好きだ。

「新居も呼ぶか?」

俺の気持ちなんて知りもしないで、こいつはいつも俺に笑いかける。

「……っ、2人が、いい」

言った瞬間、後悔が押し寄せた。言わなければよかった。すぐ隣で、あいつが一瞬息を止めたのがわかった。だめだ、気付くな、まだーーー

「んー、そうか、じゃあ2人分作って待っててやるから、早く来いよ」

俺の頭をわしゃわしゃと撫でながらそう言った仲谷は、どうやら俺と新居が喧嘩でもしたらしいと判断したようだった。

「じゃ、俺つぎ行ってくるわ」

顔が熱い。撫でられた手の大きさだとか、低い声だとか、遠ざかる広い背中だとか。気付かなければよかった、気付いてしまえばもう、知らない自分には戻れないのに。知らないふりで誤魔化して隠していくには、俺はあいつを好きすぎる。この頬はあと何度、お前を思う涙で濡れればいいのだろう。

......................................................

あいつの仕草は、いつも無意識で困る。

「なぁ、」

ベンチの隣に座った藤堂が、俺の顔を覗きこみながら言った。

「何であのとき、傘貸してくれたんだ?」

「あー、、、藤堂が濡れそうだったから」

俺は赤くなりかけた頬を必死に誤魔化しながら、気のないように返事をして、今日の天気へ話を変えた。不自然じゃなかったはずだ、大丈夫、気付かれていない。明日の雨を恨めしげに口にしたあいつは、からかった俺を睨んでバイトだと言った。

「上がり夜だろ、飯食おうぜ」

ああ、反則だ、そんなに嬉しそうな顔をされては。

「何が食いたい?」

帰ってくる言葉は、毎度のことで知っていた。けれど、藤堂に言って欲しかった。こいつが食べたいものを作ってやりたかった。

「肉ー」

いつもそれだと笑いながら、内心で可愛いと思っている自分に引いた。俺より小さいにしても、相手だって身長はある方で、こんなでかい男のどこが可愛いのか自分でもよく分からない。

「んじゃ、明日はハンバーグな」

好物を提案して笑った俺に、がきじゃねぇ、と藤堂は低く呻いた。拗ねるなよと言ったら不機嫌そうに視線を逸らされる。少し、からかいすぎただろうか。

「新居も呼ぶか?」

新居の名前を出して機嫌を伺おうとしたら、余計に顔を背けられた。

「……っ、2人が、いい」

だから、こいつは、無自覚に俺をかき乱す癖を治してはくれないだろうか。心臓がもたない。

「んー、そうか、じゃあ2人分作って待っててやるから、早く来いよ」

「じゃ、俺つぎ行ってくるわ」

いたたまれなくなって、逃げるように立ち上がった。今の顔を見られると、困る。どうしても触れたくて去り際に撫でたあいつの髪は、相変わらず柔らかかった。



(だけどその後は、どうか僕を愛して)

(( きっと時間の問題 ))





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