君は涙に溺れた


 いつだったか、その目には何も映っていないと言われたことがある。突き抜けるような衝動、込み上げるような愛情、感嘆、悲哀、後悔、その他感情と呼べるもの全て、何も感じていない瞳だと。だから余計、あの紅に、あの激しく燃える怒りに、炎と形容してしまうのも甘いようなあの激情に、どうしようもなく焦がれたのかもしれない。











 二度目の敗戦で、俺の命は尽きたと思った。いくらディーノが鮫から救ってくれても、あの紅は俺を赦さないだろうと思っていた。それでも俺はあいつの病室を訪れた。ああ俺は心底こいつに惚れているのだと、今更ながら己に苦笑した。馬鹿な野郎だ。


「……何しに来た」

冷ややかに言ったあいつの声が、想像以上に多くの感情を孕んでいたのに、俺にはもうそれらを一つ一つ解読する力すら残ってはいなかった。口を聞いてくれたことに、ただ喜びを感じた。思えば、こいつが病院に担ぎ込まれてから初めて、会うのだった。

「あんたに、殺されに」

少し動かすだけで軋んで悲鳴をあげる身体を何とか持ち上げて、引きずるようにして辿り着いたその先で、俺は上手く笑えただろうか。病室の白が眩しく、閉じられたままの紅を俺の目は欲していた。

「下がれ、カスの処分は後日だ」

俺はあいつにとって、一刻も早く消してしまいたい存在だろうと思っていたせいもあって、意外な言葉に思考は追い付いてこなかった。俺とあいつの間に暫くの沈黙が降りた。あいつはもうそれ以上何も言わなかった。

「――si,」

ぎぎぎ、と壊れたロボットみたいな動きで俺は踵を返した。ここまで乗ってきた車椅子が、病室の入り口で佇んでいる。そこまでの距離がひどく長く感じた。体はやっぱり上手く動かなくて、立っていることすら苦痛だった。

「っ、」

崩れ落ちるようにして何とか車椅子に座った俺は、最後にもう一度、あいつの紅を探してベッドの上を見た。そこにはただ眩しい白が変わらず在って、しかしその中に1つ、少しだけ俺の方を向く左の紅が見えた。肩が跳ねる。一瞬交わった視線に、脳が痺れた。

「……邪魔、したなぁ」

震える手で車椅子の車輪を押し出して、暗い廊下に出た。ぐらぐら揺れる心臓があり得ないほど早く鼓動を打つ。射抜くような鋭い視線が、俺を待っていると思っていた。それなのに、何だ、あれは。疲れきっていた。けれどその中に微かに、慈しむような柔らかさが含まれていた。

「…っ、何だ、ぁ……」

あんな目で見られたのは初めてだった。俺の脳が勝手に作り出した幻想だろうか。精算したかったはずの過去を、なぜあんな風に見たのだろう。






「―――それからずっと、話してないの!?」

 言外に信じられないという響きを感じて、俺は目の前の原色頭を睨み付けた。

「うっせ、仕方ないだろぉ、後日って言われたんだぁ」

全身包帯だらけではあるが漸く車椅子から松葉杖で歩けるようになって更に数日、俺は松葉杖なしで歩けるようになっていた。絶対安静と言われたあいつも、それなりに回復したらしい。あの日から、もう何週間も会っていなかった。いつかは決まる処分を待つだけの身で、あいつに会う権利はもう無いと思っていた。

「あんたって、ほんと……まぁ、いいわ」

俺の顔を見た原色頭は、すいと眉を寄せてから大袈裟に溜め息を吐いた。

「あんたが一番、会いたいって顔してるもの」

肩を竦めながら言われた台詞に、頬が熱を帯びていくのが分かった。会いたい、それが本音だ。どうしようもなく、会いたかった。会う権利が無いだとか、どうせ処分される身なんだとか、格好付けてみたって、結局はあいつに会いたいと思っていた。情けねぇ。

「何言ったって、無駄よねぇ」

打つ手も無いと言わんばかりに呆れ顔を作って言った原色頭に、何か反論しようと開きかけた口は、しかし乱暴に開けられた病室の扉によって遮られた。半壊した扉を振り返る。

「ゔぉぉい……、」

無惨な姿に変わってしまった扉の向こうに、久方ぶりのあいつの姿が見えた。こんな状態でも会えて嬉しいと感じている自分に笑える。蹴破られた扉が全壊しなかった所を見ると、あいつもまだ本調子ではないらしかった。横で同じように扉を見つめた原色頭が、口に片手を当てて、あらあらやっとお出ましねとあいつに聞こえないようにひとりごちた。

「カス、来い」

燃えるような紅が俺を捉えて光った。俺はこれから消されてしまう運命なのであって、それならこの紅を見るのもこれで最期かと思うとどうしようもなくやりきれない気分だった。こいつになら殺されても良いと思うのに、8年間ずっと待ち望んでいた未来にこうも早く終止符が打たれるなんて残酷だとも思っていた。まだあんたといたい、離れたくない。声に出して言えば、それこそその場で問答無用に消されるであろう願望が、喉までせりあがってきて苦しかった。

「――si.」

何か言おうとして、結局俺はあの時と同じ台詞を口にした。踵を返したあいつの背中の既視感に目眩がする。ずっと見つめてきた背だった。漸く背を預けられるくらいの強さと信頼を得られたと思っていた。それなのに。それなのに、俺は。

「それじゃあ、また後でねスクちゃん」

歩き出した俺の背中を原色頭の声が送り出した。けれどその“また”は、一生来ないだろうなと思った。頭だけはやけに冴えていた。





「どこ、行くんだぁ…?」

ヴァリアー専用の病院を出て車に乗せられた。あいつと後部座席に並んで座った俺は、病室から続く沈黙をやっとの思いで破った。返答は無い。予想の範疇ではあっても、やっぱり苦しいものは苦しかった。発車した車の窓の外を流れる景色を見ながら、ふとこの道が行き着く先を思い出した。不機嫌なあいつを乗せて、俺が何度も通った道だ。案の定、数十分もすれば俺が考えていた通りの目的地へと辿り着いた。運転手が恭しく開けたドアからあいつが降りる。俺もその後に続いた。

「何で、本部なんだぁ」

どうせ消されるなら最期はヴァリアー城が良かった、なんて我ながら暢気なことを思った。先を歩くあいつは、俺の発言が聞こえなかったのか、何も言わなかった。



長く静かな廊下を進んだ先で、あいつは立ち止まった。その扉に見覚えがある。本部に呼び出されると決まって訪れていた場所だった。あいつがその重厚な扉をまた蹴破ろうとしたものだから、焦って止めた。

「ゔぉぉい…っ、あんたまだ本調子じゃねぇのに、これ以上無理すんなぁ!」

後ろから抱き止めて叫んだら、思いきり睨まれて耳元で叫ぶなうるせぇと言われた。それから鳩尾辺りに衝撃が来るかと思って身構えたら来なかった。その代わり、あいつが首を捻って俺を振り返ったかと思うと、頬に熱が触れた。

「……っ、ぁ…?」

見開いた目にニヤリと細められた紅が映った。慌ててあいつの体を放したら、何事も無かったように背を向けるあいつが心底分からない。こんな時だと言うのに、心臓がばくばくして、嬉しいとか思っているのは、間違いなく惚れた弱味だ。

「カス、」

あいつの声で我に返った。ああ、そうだ、扉を開けなければ。あいつが素直に俺の注意を聞き入れてくれたことが嬉しかった。重厚な扉を開けながら、そんなことを思う。あいつは開いた扉の奥に進みながら、お前も来いと言った。あいつの後に続いて俺もその部屋に入る。そこに座っていた男は些か驚いたように俺たちを見つめた。

「今日は、何の用かね」

今まで、本部からの呼び出し以外ではここを訪れたことが無かった。だから今回も呼び出しがかかって連れてこられたのだと思っていた。しかしどうやら違うらしい。

「てめぇらが考えてることぐらい想像はつく」

「…何のことかな、XANXUS」

あいつの唐突な発言にも男は柔和な笑みを絶やさない。見ていて吐き気がした。

「こいつは殺らせねぇ、俺が守る。てめぇなんかにやってたまるかよ」

あいつの後ろで控えていた俺は、あいつが吐いた台詞に耳を疑った。“こいつ”というのは、俺のことか。

「行くぞ」

元から弱い頭をフル回転させたせいで、あいつがまた扉を蹴破るのを今度は止められなかった。踵を返した俺の背中に、重苦しい視線が刺さる。

「済まないがスクアーロ君、我々は本気だよ」

「―――軍隊連れてきたって、俺達は潰せねぇぞぉ」

言葉の応酬に、自然と笑みが浮かんだ。あいつの考えは解らなくとも、この男に俺達が屈するなんてあり得ないことだけは分かる。壊れた扉の残骸を踏み越えて部屋を出ると、廊下の向こうであいつの紅が俺を待っていた。

「ハッ、カスが一端の口を聞くじゃねぇか」

「事実だろぉ、あいつらがあんな奴に負けるかよ」

俺がそう言ったら、あいつは不満そうに片眉をつり上げた。

「てめぇは負けんのか」

「は?…だって俺は、」

「負けるのかと聞いている」

あいつの目が不機嫌に細められた。まっすぐ俺を見つめるその紅が、俺に逃げることを許さなかった。

「…っ、勝ちしか、あり得ねぇなぁ」

上手く笑えたかどうかは分からない。けれどあいつが満足そうに頷くから、それで良いかと思ってしまった。

「なぁ、XANXUS」

「あ?」

静まり返った本部の廊下に、2人分のブーツの音が響く。先を行くあいつの背中に、聞きそびれた疑問を投げ掛けた。

「俺の、処分は…?」

ぴくりとあいつの肩が動いた。立ち止まったあいつが俺を振り返って初めて、あいつの眉間に寄った皺と揺れる紅を見た。

「お前は俺のもんだ、」

「ザン、っ…!」

一瞬で詰められた距離に、咄嗟に目を閉じた。がつ、と鈍い音がして、口内に鉄の味が広がる。そのまま堅い腕に拘束されて、動きを制された。あいつの鼓動が、押し付けられた首筋を介して俺に流れ込んできた。五月蝿いぐらい早鐘を打つ俺の心臓が叫ぶ。あいつの心音も少しだけ、いつもより早かった。

「じじいに言ったこと聞いてなかったのか」

抱き締められたまま、耳元にあいつの息がかかる。

「……聞いてた、けど、よぉ」

「だったら分かるだろうが」

あいつの声は呆れていた。俺は戸惑っていた。一体どういう感情でこいつはそんなことを言うのだろう。

「あんたが分かんねぇ、――何で、そんなこと言うんだぁ…」

頬を冷たい滴が伝った。あいつの肩が俺の涙で濡れる。拭おうにもあいつの拘束が強くて動くことすら儘ならなかった。

「スクアーロ、」

熱いぐらいの体温が嘘みたいな柔らかいあいつの声が、俺の脳を痺れさせた。出会ってから今まで一度も聞いたことのない声音に、初めて自惚れてしまって良いのかと思った。

「分からねぇなら、教えてやる」

俺の後頭部を抱えるあいつの右手と腰に回された左手に力が入った。

「お前を愛してる、簡単に手放してたまるか」

「まして、あんなクソじじいにくれてやる義理はねぇ」

とうとう堪らなくなった。

「っ、こ、んの、ばかやろぉ……、俺だってなぁ…っ」

止まらない涙を隠すように喚いた。静かな廊下に俺の声が響く。馬鹿にしたように喉で笑うあいつが、拘束を弛めて俺の目尻に溜まった涙を唇で掬った。

「うるせぇカス、続きは帰ってからだ」

再び歩き出したあいつが俺の手を引いた。掴まれた手首が熱い。それ以上に心臓が五月蝿い。頬に残った一筋の涙を乱暴に拭って、俺はあいつの横に並んだ。



(だけどその後は、どうか僕を愛して)





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