kiss me,darling




「飯が来ねぇ」

「………はぁ?」

掌に納まった四角い精密機械は、たっぷり3秒ほどの間を空けてから、その向こうで発せられた気の抜けた返事を俺に届けた。

「うちは出前じゃねぇぞ」

「知ってる」

じゃあ俺に言うなよ、とか何とか、反論が聞こえたのを無視して続ける。

「飯が来ねぇんだよ」

「だから知らねぇっつの」

「お前、シフト一緒だろ」

「はぁ?」

本日2度目のそれは些か怒気を含んでいて、ケータイの向こうで眉間に皺を寄せた新居が見えるようだった。

「誰とだよ、」

「あいつ」

「だからあいつって……あぁ、仲谷?」

漸く合点がいったというような短いため息が、微かに聞こえる。

「仲谷なら今日はバイト休んでたぜ、っつかそれぐらい本人に聞けって」

「出ねぇんだよ、電話」

嘆息。

「あぁ……、そういや店長、風邪って言ってたな」

「あいつが?」

「そ、丈夫そうなのに意外だなって―――何だお前、一緒に飯食う約束でもして」

そこまで聞いて、俺は一方的に通話を遮断した。何なんだ、あいつ、俺に言わねぇなんておかしいだろ。













 あいつの家に行く前に、途中のコンビニでゼリーとスポーツドリンクと、それから俺の飯を適当に選んで買った。単車で20分、古びたアパートのあいつの部屋の電気は点いていて、何だかよく分からない安堵を感じる。


「おい、入るぞ」

合鍵で扉を開けていつものように呼び掛けてみても返事は無かった。

「おい…って、」

狭い部屋は電気だけがその存在を主張していて、何度かけても繋がらなかったあいつのケータイが机の上に無造作に投げられている。

「寝てんのか」

点けっぱなしの電球の下で、丸まって膨らんだベッドがひどく不自然に見えた。着痩せするせいで普段は目立たない筋肉質の体を丸くして、あいつは眠っていた。

「……すげー汗」

寝汗をかいているというのは体温が上がっているせいなのかそれとも下がってきているのか、生憎そういう知識が薄い俺にはよく分からない。ただひどく寝苦しそうに息を吐く姿に、どうにもいたたまれない気分になった。

「ん……と、うどう…?」

額に浮かぶ汗がふと目に入って、拭いてやろうと手を伸ばした所であいつの目が薄く開いた。状況が飲み込めないのか、焦点の定まらない視線でぼんやりと俺を見上げてくる。

「風邪ひいたなら、連絡ぐれぇしろ」

溜め息混じりに言いながら、伸ばしかけていた右手であいつの髪をくしゃりとかき混ぜた。

「あ、わりぃ……今日、めし…」

「良いから、寝とけ」

起きようとするあいつをもう一度ベッドに押し戻した。どうせ食欲なんか無いくせに、こいつは俺にとことん甘い。

「ゼリー買ってきた、食えるか?」

「あぁ……悪い、食えそうにないわ」

本当に申し訳なさそうな声でそう言うものだから、お前は悪くないのにと思った。

「薬は?」

「飲んでねぇ」

「……あほ」

この分だと家に薬をストックしているのかさえ怪しい。あー、くそ、買ってくれば良かった。

「ねぇの?」

「ん、いや…そこの、箱ん中に」

何だ、有るのか。指し示された小さな箱に几帳面に納められたそれは未開封で、風邪ひくのやっぱ珍しいんだな、なんてぼんやり思う。

「あー、でも飲むなら何か腹に入れとかねぇと」

「……食欲、ねぇわ」

ベッドから聞こえる声は普段からは考えられないくらいに弱かった。

「治るもんも治んねぇぞ」

薬を片手にベッドの横に腰を下ろして、あいつの顔を覗き込んだ。熱のせいで上気した頬がやけに目につく。熱っぽい息が薄く開いた唇から洩れる度、俺は言い知れない不安に駆られて心臓が苦しくなった。

「粥でも作るか?」

「…や、……それなら、ゼリーのが、良い」

のろのろとまた起き上がったあいつは、手を伸ばして俺の頬に触れた。指先が熱い。ごめんな、と動いた口が困ったように力なく笑った。

「……あほ、早く治せ」

そうやって触れられて、普段は男臭いくせに妙なとこヘタレなあいつに笑われたら、それだけで心臓がやばい俺も相当末期だと思う。

「ん、……飯の埋め合わせ、今度な」

眉尻の下がった顔が俺との距離を詰めて、唇へ触れると思ったいつもより高い熱を、頬に感じた。

「……うつっちまう、から」

反射的に閉じた瞼の向こうで、あいつの声が聞こえた。数秒間の暗闇から戻った照明の下の世界は少し眩しい。

「―――俺は風邪ひかねぇんだよ」

また、お前は何も悪くないのにって、あいつの顔を見て思った。何でそんな風に笑うんだ。俺が苛々するのは検討違いだって分かってはいても、するもんはする。

「っ…、ばかだから?」

乱暴に引き寄せて口付けたあいつの唇はやっぱり熱かった。

「うっせ、」

あいつに釣られて俺も笑った。

「ゼリー、早く食えよ」

「あぁ……、悪いな」

コンビニの袋を漁って出した蜜柑のゼリーを、あいつはゆっくり食べた。その横で俺はコンビニ弁当を食べて、薬を手渡す。

「ほら、お前、薬飲めんの?」

「んな餓鬼じゃ、ねぇっつの」

錠剤を3粒、水で一気に飲み下したあいつは、にやりと笑って俺を見た。

「別に、自慢になんねぇよ」

鼻で笑ってあしらってやったら少し睨まれた。その目が少し潤んでいて、ああ熱上がったかな、なんて思った。

「もう寝ろって、お前、治さねぇと明日もバイトだろ」

「ん…、そうするわ」

横になったあいつに布団をかけてやったら、情けないような申し訳無いような変な顔で笑った。

「わり、……さんきゅ、な」

こいつにこんな風に笑われると調子が狂う。

「―――おう」

明日、こいつの体調が戻ったら、どうしてやろうか。飯のついでにバイト先のファミレスを冷やかしてやってもいい。こいつのバイトの上がりまで居座って、キスの1つでもせがんだらこいつは一体どんな顔をするだろうか。

「おやすみ、」

「ん、おやすみ」

とりあえず、今はこのまま寝てしまって、こいつの側に居たかった。


kiss me,darling
(そう言ったらきっとお前は、)



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