傷口にキスを


 その日は朝から俄か雨のおかげで嫌な天気だった。降ったり止んだりころころと表情を変える窓の外側を眺めながら、それでも世界は灰色なのかとぼんやり思った記憶がある。
固い音を立てて、雨粒は窓を叩いていた。出掛けるには悪い天気だ。けれど天気を理由にあの部屋の扉を叩くのにはちょうど都合の良い気候だった。



雨空の厚ぼったい雲のせいで、城の廊下は薄暗かった。もともと明るくは無い城内が余計に光を拒否している。体にまとわりつく湿気がうざったい。こんな日は、思い出すのも虫酸が走るような苦い苦い記憶が甦りかけて嫌いだった。



傷口にキス





「てめえ、どこ行くつもりだ」

この部屋の扉を蹴破るのはこれで何度目だろうか。視線の先で揺れる銀は予想通り、外出の準備を整えている最中だった。

「おぉ、何だぁ俺今日休みだろぉ?」

背中を向けたままで奴は答えた。その態度が無償に腹立たしくて、振り向こうとしない細いその背中へ何か投げつけてやろうとも思ったが、そうするには余りにもこの部屋は簡素すぎた。必要最低限のもの以外は何も無いのだ。

「傘差さずに放浪した挙げ句、風邪引いて俺に迷惑かけんのはどこのどいつだ?」

いつもより幾分か低い声で挑発してやったら、ようやく銀灰色の瞳が俺を写した。視線が僅かに揺れる。迷うようにゆっくりと開いた薄い唇がやけに赤く官能的で、少し目眩がした。

「……今日は、んなことしねぇ」

「嘘だな」

返答に詰まってぐっと押し黙る奴を見据えたまま、逃げられる前に2人の距離を詰めた。銀糸が窓の隙間風に靡いて頬を掠めた。


「………行くな」


反論は許さずに顎をとった。奴の薄い唇へ熱を灯す。離れてもう一度、角度を変えながら弱く食んで、最後に下唇へ歯をたててやった。

「、っ」

白い肌には赤がよく映えた。俺を睨み上げる視線が痛いと言っている。瞬く度に少ない光を拾って、髪と同じ色の睫毛が輝いていた。

「施しだ、カス」

奴を模して傲慢げに笑った。唇の端を舌で舐めてみせたら、何を思ったのか奴の頬が赤く染まった。空はまた泣き出したらしかった。窓を叩く雨粒が煩い。


「―――心配させんな、こういう日は1人で居たくねぇ」


次第に大きくなる雨音に隠して呟くには、まだそれは小さすぎた。暫くの間制止した奴の時間が再び動き始めたのは、俺が奴に背を向けてからだった。

「ゔぉぉい、待てぇ」

奴の細っちろい真っ白の手が、俺の腕を掴んだ。触れられた其処から予想外に熱い体温が広がって、煩わしい心音に耳を塞ぎたくなった。

「あんた、今日もデスクワークだろぉ」

そう言った声が何処と無く嬉しそうで、変な野郎だと思いながら後ろを振り返った。

「一緒に居てやるぜぇ」

上からの目線が癪だった。何がそんなに可笑しいのか、緩みっぱなしの頬がだらしない。けれど、そんなことよりも何よりも、一瞬嬉しいと思った自分が一番気色悪い。

「ん、どしたぁ?」

にやけたまま小首を傾げて問うた奴を、まずは一発殴っておいた。了承の返事はそれからでも遅くはない。



(傷口にキスを、)
(君には悪なる純愛を)



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