3


 ヒトが三日月と名付けたその下で、彼は土を踏みしめていた。城を囲う森に降る雨は冷たく彼の銀糸と頬とを濡らしていく。


「…何だぁ、ベル」

彼は振り向かずに背後へと、その意識の矛先だけを向けた。

「オカマが呼んでるぜ、隊長」

ベルフェゴールは黒い傘をクルクル回しながら笑った。雨は止まない。


「帰るかぁ」


たっぶり30秒程の沈黙の後に、彼は一言呟いた。濡れた銀は鈍く輝いて彼の頬に張り付いていた。金髪を揺らしながら、ベルフェゴールは傘を彼へ傾けた。
森は不気味なほど静まり返っている。普段なら2人の間に在る喧騒が、この時だけは息を潜めて雨を見ていた。



 夜行性の任務を生業にしている癖に、彼は夜を好まなかった。畏怖を感じるわけではない。ただ、漆黒の帳は、彼が主と引き離されたあの日を思い出させるのだ。
もう二度とあんな思いをするのは嫌だった。護るべき対象を主一人に定めて生きてきた今日までの日々はその為に在ったのだと、彼は自負していた。


「っ…う、開いたかぁ?」

そういえば応急処置を施しただけの脇腹が、ズキズキと痛み出すのに思い当たる理由は一つだけだった。
塞がり損ねた傷口の不機嫌に黒い紅が元より低い体温を奪っていく感覚は、万年貧血気味の彼にとっては嫌みったらしいどこぞのマシマロ野郎より苦手な分野であった。


「だりぃ…」

質素な部屋に見合ったベッドは彼の重みを受けて小さくスプリングを軋ませた。
彼はそのまま寝てしまうつもりだった。身体を動かすという行為が、今の彼には億劫で仕方無かった。何より、穏やかな睡魔が彼を引きずり込もうと容赦なく襲い掛かってくるのだ。

為す術無くその誘惑へ今に落ちようかという時だった。


「カス、開けろ」

低い声の床を這う感触が、彼を現実に縫い留める。
視線の先でガタリと鳴った扉の、裏に在るであろう2つの緋色がどの色に燃えているのか、彼は測りかねた。憤怒か、それとも―――。

主はうざったく疼く超直観にいい加減うんざりしていた。その上わざわざ出向いた部屋の所有者から応答が無いものだから、余計に機嫌の降下を余儀なくされた。所有者の不在は、感じる気配からして有り得ないのだ。
沸々と沸き上がる苛立ちを抑えるだけ抑えた結果、主は目の前に沈黙を保つ扉を蹴破って中を睨み付けた。

果たして鋭い視線を一身に浴びた彼は、未だベッドの上にその肢体を投げ出したままであった。


主は、彼の格好に一瞬眉を潜めて小さく息を吐いた。その呆れからか苛立ちからか分からない嘆息に、彼はいつだって言い知れぬ不安に駆られた。


「ドカスが、また貧血かよ」

馬鹿にされているのだろうか、はたまた呆れられたのか、どちらにせよ彼はそれ以上主に何も言って欲しくは無かった。先程から心臓が悲鳴をあげる程煩いのだ。余り身体に血液を送られると、本格的に意識が定まらない。


「…何の用だぁ、」

朦朧とする意識の中で、仰向けに見上げる天井が狭くなり始めた。

「隠せるわけねぇだろうが」

彼は首だけ動かして主を見遣った。その瞳に己の姿はどれほど滑稽に写っているのか、紅はどんな感情を以てして己を見ているのか。
一瞬捉えた紅に己を見つけるより早く、彼の視界は黒く染まってしまった。

「おい、カス……スクアーロ、」

意識が途切れる直前に、呼ばれた名前は確かに彼のものであった。


「あら、おはようスクちゃん」

 キリキリと締め付けられるような脇腹の痛みに目を冷ました彼は、きつく巻かれた包帯の白と目覚から濃厚なルッスーリアの顔とをまず見た。それから緩慢な動作で起き上がると、低血圧の目眩に耐えながら呻くように呟いた。

「ザンザスはぁ…?」

貧血で倒れる前、確かに主と言葉を交えた記憶が彼には在った。
その紅にはっきり己が写されて、名前を呼ばれた。一瞬真っ暗になりかけた視界を過ったのは紛れもなく主の双眸で、額へ敏感に感じ取った熱が今でも彼の頬を熱くさせるのだ。

「執務室じゃないかしら?」

ルッスーリアは、少なくとも怒ってはいない、甘い声と言われれば甘いような気もする声音でそう言った。彼はルッスーリアが己を愛してくれているのだと感じていた。もちろん、彼が主へ向けるそれとは全く異なった愛情である。
ルッスーリアだけではない。ベルフェゴールもマーモンも、何だかんだ言ってレヴィ・ア・タンでさえそうだ。少なくとも幹部と作戦隊長だけでは形容しきれない何かがそこには在った。

「…恩にきるぜぇ」

彼は出来るだけ穏やかを心がけて呟いた。ルッスーリアは一寸驚いたようにサングラスの奥の目を丸くしたが、直ぐに笑って彼を見送った。




 叩かれた扉の、大人しい音がルッスーリアの来訪を告げるものかと感じた主は、しかし醸し出される空気が任務前の次官のそれと似片寄っていたためにどうにも解せないという風に顔をしかめてみせた。

柄にも無く緊張している時の奴だ。

入室の許可は出さなかった。どちらにせよ扉は開いて、彼はズカズカと部屋へ乗り込んでくるに違いなかったからである。

「ゔおぉい…邪魔するぜぇ」

案の定、止血したばかりの脇腹の白を露にしたままで彼は扉を開いた。

「何だ」

主は資料から目を離さずに問うた。彼は――スペルビ・スクアーロは、何も言わないままで主へと近寄った。デスクを挟んで向かい合った2人の距離は近く、しかし手を伸ばして触れるにはいささか遠かった。

彼は、一目見ただけでそうと解る程高額な椅子に深く腰かけた己の想い人を静かに見ていた。
デスクへと不埒にも足を投げ出している主が視線に耐えられなくなるのと、彼が主の無視に耐えられなくなるのと、どちらが早いか比べてやろうぐらいの腹積もりで彼は立っていた。






 彼の淡い期待を裏切ってもまだお釣りが出るぐらいの時間、主は動かなかった。彼は辛抱強く待ち、沈黙に耐えた。
けれど先に折れるのはいつも彼だった。
デスクを回り込んで主の右隣へ、見下ろすような格好で彼が立って初めて主は彼を見上げた。


2つの紅に写る己が小さく口角を上げるのを確認して、彼はその皺の寄った眉間へと口唇を落とした。




 窓の奥で空がほの白く染まり始めている。
薄闇の部屋で、眉間から離れた口唇を追う紅の先に、彼は小さく愛を紡いだ。



 この痛みに似合うだけの
(伝えた愛の大きさ)



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