さよなら、ネリネ
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*ボカロ神曲“鎌を持てない死神の話”をベースにしています。
町の雑踏に紛れて、黒いマントの男が1人。銀の短髪と白い肌がフードに隠されながらチロチロと覗いている。
退屈そうに欠伸を噛み殺しながら、彼はグルリと人の波に視線を泳がせた。
小さな美しい町だった。
白壁の家屋を沿道の華が彩って、鮮やかに揺れていた。
彼は職業柄、微笑むことを殆んどしなかった。しかしこの時だけは白と華が彼の頑なな心を少しばかり動かしたようだった。
「お兄さん、旅のお人かい?」
話し掛けたのは春の陽射しに暖かそうな微笑をたたえた老婆だった。
「良かったらうちへ泊まってお行き」
彼は小さく頷いて老婆の手招きに応じた。その老婆の丁度心臓の辺りで、すぐにも消えてしまいそうな弱い炎を彼は見逃さなかった。
彼は、春の明るい背景に似合わぬ黒のマントを着ていた。それは時に黒のスーツになったりタキシードになったりした。
どの道、彼が黒以外を着用することは無かった。
何故ならばそれが彼のユニフォームであり、それ以外着ることを許されない身であったからだ。
「アタシにもようやくお迎えが来たんだねぇ」
1人で宿を営む老婆は、丸まった背中を嬉しそうに揺らしながら若い男が写った写真を優しい眼差しで見つめた。
「息子なんだよ、事故で死んじまってねぇ」
彼は沈黙のまま老婆を見ていた。
「これでやっと会いに行けるよ」
老婆が背後を振り替えって、柔らかな薄茶に彼を写した。
「ありがとうね、死神さん」
老婆の隣にボウと大きな鎌が現れて、彼女を浮世に留めていた拙い糸を断ち切った。
その場に崩れる身体を両の手で受け止めた彼は、ゆっくりと脱け殻と化したそれを横たえてやった。冷たい筋肉で、それでも彼女は薄らと笑んでいた。
彼は顔を上げながら初めて、老婆に隠れて見えなかった小さめの全身鏡を見た。
そこには床に眠る老婆以外、誰も映ってはいなかった。
この町ではあまり人を此方の世界へ誘いたくないと彼は思っていた。この町は、彼には美しすぎた。しかし、それが彼の仕事であった。
宿を出てまた、彼は鮮やかな色彩に迎えられた。行き交う人の笑顔も言葉も彼には総て解ったが、その誰も彼の存在に気付きはしなかった。
ふと、彼の瞳が広場の人垣を捉えた。立派な門のある屋敷に1人の男が忙しなく入って行った。白衣姿のその男が何者であるか、彼にはその意味が嫌というほどよく分かった。
人垣の、お喋り好きなご婦人方の話からこの屋敷は町に1人だけの伯爵の自宅であることを知った。
スルリと門を潜り抜けて屋敷へ入る彼を咎める者は誰一人としと居なかった。
「白血病です、」
屋敷の主人とその奥方に、神妙な面持ちで医者は語った。
奥方はベットに眠る子を見つめて主人へ寄り掛かった。主人は彼女を受け止めながら唇を噛み締めた。
「どうにか、治らんのか」
「残念ながら、もう手の施しようが…」
「じゃあ、殺してよ」
眠っていたはずのその子は、ベットの上で半身を起こしながら笑った。ずり落ちた羽毛布団から見えた胸に、小さな炎が揺らいでいた。
「つ、つっくん、そんな…ッ」
顔を大袈裟な程青ざめさせた母親は、今度こそ床に膝を付いて泣き出した。主人と医者は沈黙を破らないままに、顔を見合わせてそれから笑顔を崩さない少年へと視線を移した。
「綱吉、お前は絶対に死なせない」
力強く言った父親の言葉さえ、少年には届いていないようだった。広い部屋は奥方の泣き声と少年の哀しい笑顔とだけに満たされていた。
「隠れてないで、出ておいでよ」
医者を帰らせ、泣き崩れた奥方の肩を支えながら主人も出て行った後、誰も居なくなった部屋で窓から見える花を眺めながら少年は静かに言った。
その顔には間違いなく柔らかな笑みが浮かんでいるのだろう。
彼は、頭に被ったままのフードを降ろしながら、柱の影の壁に預けていた背中を浮かせた。少年が果たして想像通りの笑顔を彼に向けたとき、彼は少年の頬に光るものを見つけた。
「俺のこと、迎えに来たの」
少年は疑問形で問うたが、その言葉には確信めいたものさえ感じられた。
「…はい、」
彼の返しに、少年は満足そうに笑った。
「俺の名前は、綱吉」
君は、と首を傾げた少年に彼は虚ろげな視線をやった。
「―――No.8810」
綱吉と名乗った少年は、不思議そうに彼を見つめていた。ハニーブラウンの癖毛が開いた窓の春風に柔らかく靡く度、少年の頬を撫でた。
「じゃあ、隼人って呼ぶ」
宿の老いた女主人と同じ目をして、少年は笑った。
栗色の円い瞳が嬉しそうに細まるのに、彼はそれを綺麗だと思った。だだっ広い部屋に1人で生きてきた少年の、強がりと哀しみがない交ぜになった笑みは、散り際の花のように彼を惹き付けた。
少年の頬には既に乾いた涙の痕が薄く残っていた。少年の孤独が滲み出たそれは、鮮やかすぎるほど彼の網膜に焼き付いた。この少年も彼と同じ、悲しみと孤独に生きてきたのだった。
彼は少年に、死神でよろしければ、と前置きしてこう言った。
「友となりましょう、」
少年は驚いたように目を大きくして、それからまた笑ってありがとうと囁いた。
「ねぇ、隼人」
少年は日増しに弱っていくようで、それは胸に灯る炎を視ることの出来る彼以外の誰の目にも明らかだった。
「何ですか、」
彼はいつも少年の部屋に居たが、少年が彼に話し掛けるのはいつだって部屋から使用人も両親も消えたときだった。
「花が綺麗だよ」
窓の外を彩る春が、少年の瞳に写って揺れていた。彼は花よりも、その円らな瞳の方が何倍も美しいと思った。
「あの赤色なんかきっと、隼人に似合うんじゃないかな」
その伸ばされた指の先にはネリネが揺れていた。
少年の部屋はいつも奇麗に整頓されて、塵一つ落ちてはいなかった。しかし同じように其処には、咲き誇る花の一輪も生けられたことは無かった。
「俺には、眺めるしかできないんだ」
鮮やかな色彩は、依然少年の瞳の中で揺れていた。
「隼人に採ってきてやりたいのにね」
グニャリと造形の崩れた花が、少年の頬を伝った。
彼は少年の、両親にはもちろん使用人にさえ見せない涙を見たとき、少年を黙って背中から抱き締めた。死が目前に迫っているなどと容易には信じられないほど、少年の背中は暖かかった。
“ねぇ、隼人”が少年の口癖になった。隼人と呼ばれる彼は、日毎無垢な少年に惹かれていく自分を感じていた。愛称が少年の口から紡がれる度、感じた経験の無い高揚が彼を襲った。
「ねぇ、隼人」
少年の口からまたその言葉が滑り落ちた。
彼はその声に俯いていた顔を上げて、傾いた日の射光に照された少年の物憂げな横顔を見つめた。
「外の世界は綺麗?」
朱に染まった外界は、今だけその穢れも悲哀も総て取り払われたように美しく浮き上がっていた。
彼は生命の最初から見続けた命の闇を隠して、少年に柔らかく微笑んで見せた。
「ええ、とても」
少年の背中に向けたそれが、少年の目に写ることは無かったが。
「俺、外に出てみたいな」
少年は、背後の彼を振り返った。その胸には、この町で最初に迎え入れた老婆と競うほどの大きさの炎が、それでも力強く揺れていた。
「明日、行ってみましょうか」
彼の顔からは既に笑みは消えていたが、声音は未だ優しいままだった。
「俺が連れ出します」
輝いた瞳に、外の世界を鮮明に写してやりたいと彼は願った。
「わぁ、すごい!」
黒いマントが町を往く。
その隣をハニーブラウンが楽しげに揺れて、栗色の瞳が幸せそうに細まっていた。
「綺麗だよ、隼人」
少年は沿道に咲く赤や黄色をうっとりと見つめた。外界の情景は鮮やかに少年の瞳へと写り込んでいた。
彼には見慣れた春の景色も、少年の目には総て珍しく写った。
「隼人、これ隼人と同じ色だ」
春の町は賑やかだった。暖かな陽射しの下、多くの店が軒を連ねている中で少年は銀細工の小店の前で足を止めた。
少年が指差す先には、銀の首飾りが硝子張りのケースの中で日を浴びて輝いていた。
「おじさん、いくら?」
少年は店番らしい中年の男に柔らかな笑顔を向けた。彼は、その笑顔を自分にだけ向けていて欲しいと思ってから、後悔するように小さく頭を振った。
「ありがとうございました」
男が首飾りを綺麗に包むのを見ながら、少年は小さな咳をした。
彼は少年の炎が燃え続けていられる理由を探さなければならないほど、小さくなってしまっているのを知っていた。
「帰ろうか、な」
言いながら、少年の体はその場に崩れ落ちた。男の、切羽詰まったような息を呑む音を遠くに聞きながら、彼は自分を通り抜けて少年に駆け寄っていく人々をぼんやりと眺めていた。
その小刻みに震える肩と、掌に爪が食い込んでしまうくらい強く握りしめられた拳とが、彼の頬に伝う雫の理由だった。
「何故、外へ出したんだ!!」
屋敷に主人の怒鳴り声と奥方の啜り泣きが響いている。怒りの矛先は使用人へ向いていたが、いくら彼等を怒鳴り付けた所で少年の容態が良くなることは無かった。
「大丈夫だよ、」
少年は1人、ベッドの上で笑った。
彼は、いつも少年の部屋に居た。期限はもうすぐそこまで来ていた。彼は、永遠に朽ちることの無い己の体を恨んだ。もしも消えてしまうことが出来たなら、少年と共に天へ昇って星となってこの世界の総てを一緒に見たかった。
死神の彼に、人を愛することの結末はあまりにも残酷だった。
「俺ね、孤独だったんだ」
奥方の泣き声に消されてしまいそうな程細い声で、少年は語った。
「だけど今は違う、隼人に出会えたから」
主人は静かに奥方の背中を擦った。少年は薄黄色の袋からゆっくりと銀の首飾りを取り出した。
「隼人と過ごせたから、俺は幸せだったよ」
少年が横たわるベッドの隣に、大きな鎌が現れた。
彼が手を伸ばすより早く、鎌は少年の命の糸を断ち切った。
「つ、な、よ、し―――ッ」
死神の叫びは、誰にも届きはしなかった。
少年は、晴れやかに笑っていた。
少年は綺麗な顔で白の棺に納められていた。式はしめやかに執り行われた。
「急なことで、可哀想にねぇ…」
「最期の方は幻覚まで見えてたんですって」
「何でも、はやとだったかしら、誰も居ないのにそう呼んで笑っていたって」
少年の身体は淡い色彩の花に囲まれた。その中に一輪だけ、赤色のネリネが丁度心臓の横に寄り添っていた。
彼の頬は濡れなかった。流す涙さえ渇れてしまった。
彼の胸元には、銀の首飾りが朝日に照らされて輝いていた。それに気づく者は誰一人として居なかったが、彼はその銀を総てから守るように両の手で包み込んだ。
掌の銀は、いつか抱いた少年の背中のように暖かかった。
彼は天の上の少年へと、静かに語りかけた。
―貴方の記憶は俺が、永久に守ります。貴方のおかげで俺も、幸せというものを知りました。
「寂しくなんかありません」
頭上の大空は嵐の後のように晴れ渡って、淡い白が春の風に泳いでいた。
さよなら、ネリネ
(また逢う日まで)
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