ぬるま湯
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ここはぬるま湯だと、彼は言った。
たくさん実った採れたて新鮮の蜜柑をふんだんに使って新しいスイーツを試作していたサンジは、それまで止まることの無かったしなやかな両手を一瞬止めた。
「んで、何だってんだよ」
しかしそれはサンジの口から滑り出した台詞と共に再び動き始めた。
「俺は、船を降りる」
彼は何の躊躇いもなくあっさり言い放った。一度決めたら動かない固い剣士の意志がありありと滲み出たような、そんな口調であった。
サンジは何も言わなかった。黙って蜜柑を盛り付けていくその寸分違わぬ手つきは、或いは彼がそう言うことを最初から知っていたようにも見えた。
「ほい、食ってみ」
コトンと小さな音を立てて彼の前に差し出された小振りな皿には、何とも美味しそうな新作スイーツが行儀よく収まっている。
「自信作だぜ」
サンジはそう言うと、踵を返して彼に背を向けた。普段なら彼の口から美味いの一言が出るまで隣を動かないサンジの珍しい行動に、しかし彼も何も言わなかった。暫くして小さく聞こえた鼻を啜る音も聞こえないふりをして、綺麗になった皿を前に彼はわざと大きくごちそうさまを言った。
「なぁ、良かったのかサンジ」
蜜柑畑に埋もれた金色へ、そう声をかけたのはウソップだった。
「お前も懲りねぇな」
いつの話してんだよとのろのろ出てきたサンジは、口元に薄らと苦笑を浮かべている。ウソップはそれに気付いているのかいないのか、腰に手を当てがって鼻息を荒くした。
「だって、だってよ、」
したと思ったら、急に弱腰になってどこか泣きたそうな声を出した。
彼からほとんど二年ぶりに連絡が有ったのは、ほんの三日前だった。頭上を旋回する一際大きなカモメ(らしきもの)がこの船に落としていった紙切れに、記されていた字は紛れもなく彼の筆跡だった。
此処にいた頃は寝るか食べるか筋トレか、字を書く姿なんてついぞ見ることの無かった彼の字を、何時だったか何かの拍子に見たサンジはそれをやけに鮮明に憶えていた。こいつ字なんか書けやがるのかと心底驚いたからかもしれない。
男らしい太く強い中に流れるようなしなやかな部分があって、彼の太刀筋の如く繊細な字である。
其処には簡単な近況報告が、それこそ必要最低限の文字数で記されているだけだった。その単調さは、いっそ見事とする他無い程に彼らしいと言えば彼らしい。
いかにもあの剣士の頭で考えただけあるような拙い文章に美しい文字は些か不似合いだったが、サンジにはそんなことよりも気になることが有った。
「一方的、ね」
それを代弁したのはナミだった。
淡白な文面でついぞ触れられていないクルー達の表情は、少なくとも喜びに満ち満ちたとは言えないものだった。
「元気そうで良かったなぁ」
やけにのんびりした口調でそう言ったのは、やはり船長である。
クルー達は一応の笑顔をその顔に浮かべたが、取り繕ったそれはすぐに崩れてしまいそうだった。
「…飯に、しようか」
サンジは、誰にも表情を見せなかった。俯き加減で煙草に火を点けた彼は、その顔を金髪の影に隠しながら吐き捨てるように呟いた。
その後に食べた夕食は何とも静かだった。あの船長でさえ、ウソップの分の肉を取らずに大人しく食べた。食べ終わって早々に去っていくクルー達の、最後にフランキーが不寝番に上がっていくのを見送ってから、サンジは独り酒を煽った。
二年前は隣の萌木色を眺めながら、あんなに美味く感じたそれが何故だか味気なくって笑えた。
キッチンの壁の、小さめな窓から丁度円い月が見える。ゆったり進む船の底に当たっては静かに砕けていく波の音が、ひっきりなしに彼の心を乱して底に沈めておいたはずの感情を誘った。
グラスに揺れるシャンパンゴールドが眩しくて、思わず閉じた瞼の裏に熱い何かが込み上げてくるのを感じた。
「良いんだよ、あいつが選んだんだ」
緑と橙のコントラストの中で、金はまたサンジの表情を隠してしまった。
「…俺ぁ嫌だぜ、」
ウソップはそんな彼を見ながら小さく肩を落とした。
「あんな風に出ていって、今さら連絡寄越しやがってよぉ」
力なく嘯いたウソップは、なぁとサンジに同意を求めて首を傾げる。
サンジは呆れたように笑うだけで、何も言わなかった。
「もうすぐ島に着くわよ」
ナミの声に誰よりも早く反応するのはルフィだった。これだけはいくら女好きのサンジでも勝てた試しが無かった。
「食料買いに行くか」
そうして、サンジの買い出しに荷物持ちとして半ば強制的に付き添わされるのは、いつでも彼だった。他の誰かが行くことは決して無かった。
二年前までは、の話ではあるが。
船番にはフランキーが残ることになった。
ウソップとチョッパーがサンジの荷物持ちとなった。
紅葉で美しく彩られた秋島に並ぶ出店は、あちらこちらから料理人の鼻を刺激する芳しい香りが立ち込めていた。それは同行人も同じようで、嬉しそうに青い鼻をひくつかせながらチョッパーは瞳をキラキラと輝かせた。
「なぁサンジ、全部うまそうだなぁ!」
ログが貯まるまで期限は四日、その間にこの島の味覚を堪能してみるのも良いかもしれない。厨房で自分ではない誰かに調理されたものを、サンジは久しく口にしていなかった。
「おい、サンジ、あれ―――」
サンジがどこかのレストランにでも入るかと口を開きかけたとき、ウソップがそれをやけに神妙な声で遮った。
その視線の先で、サンジは確かに、もう二年も見ていないあの萌木色を見た。釣瓶落としに傾いた陽の斜光を浴びて、淡く橙に輝き揺れる三連のピアスと懐かしい横顔が、サンジの視線を捉えたまま放さなかった。
「サンジ…?」
チョッパーの声が遠くに聞こえる。
ウソップの制止も振り切って、サンジは彼の元へ走った。
「…誰だ、てめぇ」
彼は、元来不器用な男だった。隠し事はおろか嘘もつけない、ただひたすらに純粋な男であった。
朱のさした頬が夕焼けのせいかそうでないのか、サンジはよく分かっていた。二年前まで一番近くでこの男を見てきたという自負が、サンジには有った。
サンジが腕を掴んだまま出店の間を森の方へと抜けて行っても、果たして彼は何の抵抗も試みなかった。されるがままズルズルと引きずられ、サンジの手が導くままにその後ろをついて歩いた。サンジは痛いほど強く彼の手を握った。
「何だよ、」
陰惨と生い茂る木々の僅かな隙間から、橙色の木漏れ日が微かに二人を照らしていた。
薄暗いその中で浮かび上がったシルエットは、昔のようにサンジの心臓を五月蝿く高鳴らせた。
「てめぇ、何で此処にいんだよ」
会いたいと願って止まなかった萌木色を、サンジはしかし怪訝な顔で睨み付けた。
立ち寄った島で運命的に偶然の再開を果たしたからといって、船に戻れなどと言えるほどサンジは愚者では無かった。何より剣士のプライドがそれを許さないのを知っていた。
「あ?てめぇこそ何で、」
彼はとても、強かった。鍛え上げた肉体と不屈の精神によって、彼はどんな敵のどんな攻撃にも決して屈しなかった。
しかし、彼を唯一根底から揺るがし鎧に覆われた弱さを引き出してしまうものが在った。
「…アホコック、」
彼はしごく不器用に、サンジの頬を撫でた。ごつごつした指の感触が、二年前から何ら変わらずサンジの涙を掬っていった。
彼は、整った眉を寄せ眉間に皺を刻みながら長い息を吐いた。何かを決断するような、そんな間だった。
「船には戻らねぇ」
言い切った彼に、サンジは何も言わなかった。二年前と同じ、或いは何もかも見透かすような沈黙だった。
「彼処は、俺には優しすぎる」
仲間の暖かさを知り、強さを知り、そしてかけがえの無い存在を知った。幸せが何であるかは解らないが、もしかしたらあの頃がそうだったのかもしれない。
しかし同時に、怖くなった。仲間を置いて、サンジを置いて先に逝くことが、剣の道を逝くことが。
彼奴らを守るための強さが、消えることの畏怖を生み出した。
この意志が変わることは無いと、彼はそう言った。
サンジは永く沈黙を破らなかった。彼の剣豪への想いを、サンジはよく解っていた。
「ああ、決意は曲げねぇ主義だろ。お前らしいな」
カラカラと落ち葉が泣った。
空虚な瞳には、互いの姿が鮮明に映り込んでいた。
「このクソ広い海原を舞台に、遠距離恋愛てのもいいじゃねぇか」
サンジが口角をつりあげて笑った。その目に、もう涙は浮かんでいなかった。
「愛してるぜ、ゾロ」
彼の口は、何かを言いかけてサンジのそれに塞がれた。二年分の時間と涙の味だった。
「迷子になるなよ」
もうすっかり陽は地平線の彼方へ消えていた。月の仄かな明かりに足元の影を伸ばしながら、サンジとゾロは並んで立っていた。
先に背を向けたのはサンジだった。手をあげて緩く振りながら、金髪を揺らして遠くなる背中をゾロは俯きがちに眺めていた。
二年、その間にもゾロの中で膨らんでいく想いの止め方を、彼は知らなかった。
「サンジ……ッ」
気が付けば、走っていた。
サンジの驚いて丸くなる瞳いっぱいにゾロが映って、抱き締めたのと口を塞いだのとは殆んど同時だった。
「…愛してる、から」
月に照らされて二人の影が重なった。波の音だけが辺りに響いていた。
ぬるま湯
(料理人と剣士の恋のお噺)
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