ほかに何を捧げれば


 空は泣いていた。少年は不機嫌に宙を睨み上げて、灰色を映した紅へその憤怒を宿した。






 あの日と同じ雨の下で、ザンザスは小さな小さな銀色を握り締めていた。身体を伝う水が徐々に体温を奪っていく感覚を、どこか自分のことで無いような遠くに弄びながら、吐いた息は少しの酸素を世界から奪って消えていった。ザンザスは中途半端に濡れた黒髪をかきあげて、今自分が来た道へ残る足跡を睨む。不機嫌に閉じた瞼の裏へ浮かぶのは煌めく銀色の男。あの日に灰色だった景色を虹色に染め上げた奴は、同時にザンザスの掌で違和の存在を主張するそれを投げ付けてやる相手でもあった。鮮やかな世界はしかし、その色彩の中へ銀色を紛れ込ませて隠してしまった。もうすぐ今日は終わってしまうというのに、雨は止まないどころか更に激しく降り始めたようである。
奴に捧げられた愛は計り知れない程であった。反吐が出る、無償の愛など。最初はそう思って、使い捨てにしてやろうと目論んでいたこともある。


「…おい、スクアーロ」

それがいつの間にか覆され揺さぶられて、吐き出したのは唯唯純粋な、真っ直ぐでそれでいてひねくれ曲がった愛の言葉だった。

「てめえの人生、俺に預けろ」

何を今更、んなもんとっくにお前のもんだろと傲慢に笑んだ男に、回りくどい文句は本来の意味を捉えて貰えず空気へ溶けた。鈍いのは知っていた。恐らく理解しないで笑うことも予想の範疇であった。
だから、予め用意しておいた紙切れを鼻先に突き付けてやった。己にこれだけ準備に手間を掛けさせるのは目の前の男だけであり、それを少なからず悪く思っていない自分もまた事実であった。
丸く見開かれた銀灰色に戸惑いが揺れるのを見た。わななく唇が何かを紡ごうとして何度も開いたり閉じたりする様は、餌を求める金魚のようで思わず薄いそれに噛み付きたくなった。一瞬泣きそうに顔を歪めた男は、ザンザスの紅から逃れるようにじりと後退りして、踵を返したかと思うと駆け出して行ってしまった。小さくなっていく背中をぼんやり見つめながら、ザンザスはあからさまに舌打ちをした。いつもこうだ。優しくされたり、捧げられたり、愛されたりすることに奴は慣れていない。優しくするのも、捧げるのも、愛すことも、奴はいつだって当然のようにやってのけるのに。それを享受するだけ享受したザンザスは、今度は返してやろうかと漸く重たい腰を上げたのだ。様々な葛藤は彼の多大なる足枷になったけれど、それを振り切ったザンザスは強かった。重厚なブーツの足音を城の廊下へ響かせ、ザンザスが歩く。外界は太陽を隠す暑い雲のせいで、薄暗く静まり返っていた。



 静寂の世界に小さな音で細い雨が注がれた。泣いた空にしかし城を囲う深い森は無視を決め込んで、緑に跳ね返る滴に映り込む紅は不機嫌を露にしながら森を進んでいく。ザンザスが探している男は、この先に居るはずだった。森の奥まった所にある、奴お気に入りの場所。深い緑の針葉樹に囲まれた其処は、ザンザスでも滅多に足を踏み入れない奴の聖域だった。超直感に教わらずとも察しが付く。彼処しかない。奴が1人で居るのは単独任務の任務先か自室かその聖域だけだ。進むに連れ濃くなる緑。比例して強くなる森独特の香。その中に紛れて淡く、嗅ぎ慣れた匂いを感じて、まるで犬のようだと自嘲してみた。

「鮫ってのは匂うもんなんだな」

背後に忍び寄った訳でも、気配を殺していた訳でも無い。唯、雨に打たれる男の姿が余りにも儚くて、そのまま消えてしまいそうで、この世界に縫い留めたくなっただけだった。背中から抱き締めた細い体躯が強張るのを感じて、ザンザスは眉をひそめた。こいつは全く、元から弱いその頭で無理に考えようとするからショートするのだ。考えずとも答えはとおに出ているだろうに。

「逃げんじゃねぇ、」

未だ動かない銀を背後から先に制して逃道を塞いでやった。銀を求めて歩き回る間の焦燥感にも似た正体不明の何かは、お世辞にももう一度味わいたいと言えた代物では無かった。


「…本気かぁ」

酷く掠れて大人しい声で訊くものだから、ザンザスは背中にヒヤリとしたものが通り抜けるのを感じた。それを無理矢理雨のせいにして、ザンザスは知らぬふりをした。

「本気だ」

腕の中の男が小さく身動ぎして拘束から逃れようとする。ザンザスは細い身体から腕を離してやって、男が此方を振り向くのを待った。
「俺でいいのかよぉ、」

もう殆んど泣いているような震える声を、眉間に皺を寄せることで必死に堪えながら、奴はそう言った。己の隣を許した男はこんなに馬鹿で鈍感だっただろうか。こんなに1人の人間に入れ込んだのは初めてだった。こんなに愛されていると感じたことも無かった。自分に捧げられた居心地の良い感情の分だけ、返してやるつもりでいるのだ。だから。

「当たり前だ、カス」


啄むような口付けはとうとう奴の涙腺を崩壊させたらしかった。すがるように肩口へ顔を預けられ、静かに身体を震わせる男をそっと、壊れ物を扱うように抱き締めてやる。泣くんじゃねぇ気色悪ぃと愚痴ったら、泣いてねぇなんて一応の反論は返ってきたけれど、その声はやっぱり掠れていた。



 ほかに何を捧げれば気がすむのですか?
(捧げられて受け取った分、)
(返せるほど素直では無いから)

(だからいっそ総て奪ってしまおうか)



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