この手の上に
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「いらっしゃいませ」
カララン、とベルが鳴って、美容室のドアが開いた。
街の中心に高々と噴き上げる噴水の、周りをグルリと囲む広場から少し外れた森の入り口に、その店は小さく佇んでいた。
白の壁は暖かく来客を出迎え、花壇に植えられたコスモスが秋の訪れを告げる。
「神田さん、待ってましたよ」
手際よく荷物と上着を預かりながら、彼は笑顔でそう言った。
「どうぞ、」
無言の頷きもご愛嬌、と深くした笑みが橙の髪を揺らす。
横になったイスの上で近付く、彼の香り。
太陽と森とシャンプーの甘い。
そのまま瞳を閉じてそれらで肺を満たしながら、頭皮に触れる優しい指と上から降ってくる彼の声に耳を傾ける。
「神田さんの髪、ツヤツヤで羨ましいさ」
時々漏れるどこかの訛りと訂正の言葉がどうにも可笑しくて、クッと喉を鳴らして笑った。
「やっぱ、笑顔が一番ですよ」
ニコニコと彼も笑って。
「痒いとこありませんか」
首を横に振る。
シャカシャカ、彼が自分の髪を洗う音だけが聞こえて、2人の間に沈黙が訪れる。
ゆったりと流れる時間が、密かに寄せる想いと共に膨らんで、胸を締め付けた。
「はい、おつかれさまでした」
柔らかい声音で我に返る。
気が付けば彼の顔が目の前に在って、思わず頬が染まった。
「今日はカット無し?」
「あぁ、」
そんな、彼に会うためにシャンプーだけしに来た、なんて言えるはずも無く。
「ジジ…店長、今日は出番無しさ」
店の奥から姿を現した不思議なメイクの老人に声を掛ける。
「ジュクジュクの未熟者に、ジジイ呼ばわりされとうは無いわ」
パンダメイクの小柄な老人は彼にそう言い返すと、此方を振り返って少し頭を下げた。
「いつも、ありがとうございます」
会釈を返せば、見つめてきた独眼と目線がかち合う。
微笑みの奥に自分と同じ感情が無いか、探ろうとして止めた。
カララン、来たときと同じ音色が今度は背中を押す。
ありがとうございました、と彼の声を、名残惜しく思う自分がまた可笑しくなって小さく口の端を上げた。
「神田さん、待って待ってッ」
呼び止める声に振り向けば、先程まで会っていた彼。
その手が自分の右手を取って、掌に何かをのせた。
「これ、街で見つけて…」
黄緑の細い髪紐。
「神田さんに似合いそうだなって、思ったんです」
彼の瞳と同じ色のそれは太陽の光に小さく輝いて。
「…ありがとう」
明るい笑顔は、それは、客になら誰にでも向ける営業スマイルなんだろうか。
「好きだ」
「え…?」
穏やかに細められていた垂れ目が見開かれる。
「あぁ、髪紐、気に入って貰えたなら嬉しいです」
しかしそれはほんの一瞬で、次にはもう、彼に変換されてしまった想いと共に元に戻っていた。
「違う」
「…嫌でしたか?」
下がった眉尻が、何とも言えず歯痒い。
彼と自分との身長差は、ほんの2センチほど。
背伸びを少しだけ、爪先に体重をかける。
人気の無い、森から広場へと続く道に、小さなリップ音が響いた。
「また来る、じゃあな」
固まったままの彼を置いて行くのは何となく忍びなかったけれど、そのまま居て真っ赤な顔を見られるのはもっと情けない気がして。
返事は次に来るとき、それまでこの髪紐は大切にしまっておこう。
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