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彼女の告白と執事の心理



 薄い氷の上を裸足で歩いてるみたいな、そんな感じだった。それなのに何も臆さず、何も感じず、踏み締める度ぱきぱきと危なっかしい音を立てる足元にも気を向けずにどこか遠く、隣を歩く私さえその視界には入っていなかった。存在を認められていないようで、何度も泣いた。その度に一寸ずつで良いから、彼に近付こうと思った。私に出来るのはそれぐらいしか無いって。だから、彼が心を開いてくれた瞬間、私はまた泣いた。何かきっかけが有った訳でも、2人に特別何かが起こった訳でも無かった。ただ、日々の積み重ねだった。彼にはきっと誰にも言えない秘密が有る。それを知りたいと思ったことが無いと言ったら多分嘘になるのだけれど、共有したところで私に何が出来るのか分からなかった。だから、私はそれについて何も言わなかったし、それで良いとも思っていた。鮮やかすぎる光景は、吐き出してしまおうにも鋭すぎて自分も誰かも傷付けてしまうことを彼は知っていた。アルマが何度か聞き出しに来ていたみたいだけど、成功した素振りは見せなかったからきっとアルマにさえ話せないことなんだ。だったら私になんて、話してくれる訳がなかった。そう思っていた。


 彼の話は唐突に始まって、深い深い息を吐いて終わった。吐き出してしまった過去は彼を酷く痛め付けたようで、眉を寄せて無意識の涙を堪えるみたいに唇を強く噛んでいた。こんなに、重たい過去を背負って、私は彼にどれだけ辛い言葉を浴びせてきたんだろう。どれだけ苦しい思いをさせてきたんだろう。彼の秘密を知りたいなんて、ちらりとでも思った私は馬鹿だ。酷い奴だ。知って一緒に背負えるだけの力も強さも持っていないくせに。私は泣いた。彼は私が泣く度に見せた、困惑したような迷惑そうな心配そうなあの顔をしていた。

「かんだ、」

自分の声に自分で吃驚した。私ってこんなに弱い声だっただろうか。こんなにもすがるような、弱い女だっただろうか。口をついて出たのはごめんねと謝罪の言葉だった。彼は何も言わなかった。何も言わない代わり、その腕で私を抱き締めた。私は広い背中に手を回して、彼の服を握った。自分が何を言おうとしているのか、私にもよく分からなかった。ただ、言ってはいけないことだけは何となく分かっていた。それでも唇は止まらなくて、私の力ではもう私を止めることは出来なかった。


「かんだ、わたしね」

ああ、だめだ、これ以上は言っちゃだめなのに。

「わたしね、」

涙に震える声は、彼に届いているだろうか。届いていなければ良いのに、彼の視線はぴったり私に向いていた。

「…かんだが好きよ」

震えていた。私も神田も、震えていた。返事は無い。その代わりに彼は少し強く私を抱き締めた。私と彼はお嬢様と執事の関係で、こんな感情は持ってはいけないとずっと思っていた。それなのに彼が、私にあんな顔を見せるから。あんな話をするから。自惚れてしまって良いのかと思ってしまった。彼の気持ちは分からなかったのに、抱き締めてくれる力がすごく心地よくて、私はまた泣いた。彼の顔は私の肩に埋まっていて見えなかったけれど、肩口が濡れて冷たくて彼の涙を知った。


 アルマが訪ねてきたのは、その次の日だった。何を話していたのかは分からなかったけれど、帰っていくアルマの後ろ姿はいつもと変わらなかったから、きっと彼は何も話さなかったんだろう。それなのに、1人になった彼は別人だった。昨日のことなんかまるで無かったみたいに振る舞って、私との会話を避けるようになった。私の存在はそこにはっきりと在るのに、必死になって消そうとしてるみたいだった。私は何度も足掻いて彼に私の声を届かせようとしたけれど、まるで無意味だった。ああ、そうだきっと私なんかが彼の中に入れる訳が無かったんだ。自惚れた私が悪いんだ。神田の経験してきた辛さに比べればこんなもの。痛くも痒くも無い。鮮やかだった彼の涙の温度も、しだいに私から消えていくだろう。どうであれ私は彼を想っていた。



朝焼けの傍観者




 陽が出て参りました。橙が鮮やかでとても美しい。朝靄に少し邪魔されてはいますが、それでもはっきりと見えますよ。お嬢様、今朝は体調がよろしいようですね。
 そうね、今朝は何だか調子が良いわ。それより私はもうお嬢様なんて歳じゃ無いのよ。その呼び方は止めて。年相応な呼び名にしてちょうだいな。

 それは失礼いたしました。長くそう呼んでまいりましたので、癖になってしまいまして。それでは、リナリー様、朝食の準備が出来ましたから此方へどうぞ。

 …神田、貴方、いつの間にか物腰が柔らかくなったわね。昔は世界中を敵に回したような、怖い目をしていたのに。今はとても優しいわ。

 これはこれは、そのような大昔のことを覚えておいでなのですか。もう何十年も前のことにございます。あの頃の私は若かったのです。リナリー様にだけはお話したような過去も持ち合わしておりましたゆえ。

 あら神田、私のことを馬鹿にしているの。記憶力はまだ衰えていないつもりよ。そうね、出来ることならあの頃へ戻りたいわ。兄様が生きていらして、リイラもまだ小さかった。私も貴方も若かったわね。

 コムイ様はあの頃とてもやきもきしておられたのですよ。リナリー様もリイラお嬢様もどんどんお美しくおなりで、変な虫が付きはしまいかともう気が気では無いといったようなご様子でした。あのシスコンと親馬鹿は死んでも治るまいと、私もアルマも案じておりました。

 ええ、確かに。兄様は私をとても愛してくださった。でもそれは知らなかったわ。兄様ったら、変な虫だなんて。私が生涯独身だったのも兄様のせいかもしれないわね。

 あながち、間違ってはいないやもしれませんよ。リー家の周囲ではコムイ様が居るから彼処のお嬢様方には手を出すなと、専らの評判でございましたから。

 あら、そうだったの。今度会ったら兄様にちゃんと抗議しましょう。あの人はシスコンが過ぎるわ。

 ええ、そうでございますね。けれどリイラお嬢様はご結婚なさって一段お美しくなられたようにございます。

 リイラの花嫁姿はとても綺麗だった。あの子ももう若くは無いけれど、今でも十分綺麗なまま。これも親馬鹿かしら。私も花嫁衣装というのを着てみたかったわ。

 リナリー様も、十分お美しくていらっしゃいます。リイラお嬢様もそう仰有っておられましたよ。

 神田、貴方お世辞まで言えるようになったの?…それとも本心かしら、貴方の目はいつも正直だものね。こちらを向いてちょうだい、もう朝食は下げていいわ。

 かしこまりました、リナリー様。私の目は何と言っておりましょうか。

 そうね。神田、今までありがとう。何だかんだ、私も楽しかったわ。

 リナリー様、いかがなさったのです。急にそんなことを、

 いいえ、急なんかじゃ無いのよ。ずっと思っていたこと、貴方の目がもう霞んでしまって見えないから、さよならの前にこれだけ伝えたかったの。

 神田、私は貴方に謝らなければならないことがたくさん在るのだけれど、それよりも、伝えたいことが在るのよ。ねえ、聞いてくださる?

 はい、勿論でございます。

 そう、神田ならそう言ってくれると思った。…あのね、神田。私、今でも貴方を愛しているわ。貴方にとって、この言葉がどれだけ残酷な意味を持っているのか知ってしまった今でも。ごめんなさいね、最期まで貴方には迷惑を掛けっぱなしで逝ってしまうことを許してちょうだい。

かんだ、ほんとうに、ありがと、















 朝日はいつの間にか高く、その橙を優しい光に変えて彼らを照らしていた。穏やかに少女のような微笑みを浮かべた彼女は、生涯に渡って愛し救い続けた彼の腕の中で、その薄桃色の頬に一筋、涙を煌めかせていた。濡羽色の髪に白を混じらせた彼は、笑いながら泣いた彼女を見下ろしていた。そうしてとても永い間、彼らを照らす朝日がどれだけ高く昇ろうと、反対側に沈んでいって闇を連れて来ようと、2人を包む静寂は決して破られることは無かった。




(もしも君に伝えられていたなら、)
(この世界で僕らは)


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