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執事の告白と彼女の心理




“大丈夫、私がいるから”

 夢の中でまで彼女は笑っていた。夢ぐらい笑わなくとも良いだろうと思うのに、しかし俺は今までその笑顔に何度も救われてきた。だからきっと、明日も彼女は笑うのだろう。俺を救うのだと言って微笑んだあの日から、彼女が笑わなかった日は無かった。冷たい世界が俺を幾ら拒絶しても、彼女だけは側に居てくれるだろうと根拠の無い確信が有るのは、多分そのせいだった。専属執事なんて名目だけで、最初の頃はそれこそ何もできない赤子のように放心していた俺を、彼女は底無しの優しさで包んであやした。そして俺はその横へうずくまって、毎朝彼女のおはようを聞いて、毎晩彼女のおやすみを聞いた。何年もそうやって、気が付けば少女は美しい女性なっていた。少年は青年になり、やがてかつて少女だった彼女を守れるぐらいには強くなった。そのつもりだった。それでも彼女は笑うことを止めなかった。いつも隣に居て支えてくれた彼女を特別な感情で以て見てしまうのは、もはや否定しようのない事実らしかった。と同時に最も目を逸らしたい現実だった。
 2人の間に特別何かが起こったわけでは無かった。微笑む少女は無愛想な少年に愛を教え、あんなに焦がれていた世界の光を教え、俺を暗闇から引っ張り出した。何も無い、強いて言うなれば彼女の笑顔に磁石の如く惹かれていく己を止めなければならないことに気付いてしまった。身分違いの不相応な恋だと解っていた。諦めて何も無かったように振る舞うのが得策だと知っていた。けれど知っているだけで、実際それが出来るかどうかは別問題だった。俺の抱える闇を彼女は共有したがるわけでも、無理に吐き出させようとするわけでも無かった。ただ素知らぬふりで笑うのだ。どうしたって居心地の良い世界に、俺はきっと自惚れていたんだ。


 俺達の、俺とアルマの生い立ちに疑問を感じることは何度も有った。父親はマッドサイエンティスト、母親は居なかった。始まりは窪みの中で、羊水から這い出した瞬間から俺の運命は決まってしまった。抗うだけの力を有していた訳では無かったけれど、もしもこの世にカミサマがいるなら、こんなのは不公平だと思っていた。だから、俺はアルマの手を掴み、アルマは俺の手を握って何度も何度も抗った。父親とカミサマはしかし、それを赦してはくれなかった。科学者にどれだけ痛め付けられても、俺達は終わらなかった。すぐに再生してしまって、この世界から消えて逃げることさえも赦されていなかったのだ。アルマはいつも笑っていた。泣いたり怒ったり忙しなく感情も表情も変わって、それでも最後は笑うのだった。俺はその笑顔を守りたかった。唯一の友達が傷付く姿は見たくなかった。だから、もう何度目かも分からないあの逃亡は、俺が言い出して始まった。いつになくスムーズに脱け出した俺達は、窓硝子から外の世界を見た。ずっと先まで続く荒野に雪が降っていた。決して鮮やかな情景では無かったのに、俺の目はその景色を今でも忘れていない。窓硝子を割ったのはアルマだった。俺はその破片を避けて進んだ。後から付いてくる彼の普段より速い心音に、その原因を高まる期待だと思った。アルマの後ろ手に強く握られた硝子片を、俺は知らなかった。ふいに背後で科学者の怒鳴り声がした。窓硝子の割れた音で気付いたらしかった。咄嗟に掴んで走り出そうとした俺の手をしかし、アルマは振り払った。父親の荒い息遣いがそこまで迫って来ていた。思わず何してんだよと怒鳴り付けた俺をゆっくりと振り返ったアルマは、見たことの無い表情をしていた。

“ずっとこうしたかった、ゆうをきずつけたやつに、おなじだけのくるしみを”

そう言って飛び出した彼に、俺は何も出来なかった。アルマの右手に光る大きな硝子片が、雪の間から顔を出した太陽にきらきら輝くのをただ放心して眺めていた。
 我に返って止めに入った俺を、アルマは見えていないようだった。がむしゃらに硝子片を振り回して俺は身体中に切り傷を作った。父親は怯えた顔をしたまま息絶えていた。アルマは返り血に紅く染まっていた。暴走した彼は研究所ごと破壊してしまって、スクラップの山の上、科学者の隣で倒れた。雪は止まなかった。一瞬顔を出した太陽も、すぐにまた厚い雲の裏へ隠れてしまった。総てを見ていたのは俺だけで、頬を伝うのが涙だということに気付いたのは、彼を研究所の成れ果てから引き摺り下ろしてしまった後だった。もう俺には、隣で眠っている彼以外何も無かった。どれだけ叫んでも喚いても、俺達を救ってくれる人は居ない。俺を守ったのはアルマで、だったら今度は俺が彼を護る番だった。 目覚めた彼は何も覚えていなかった。瓦礫の上に横たわるそれを見て助けようとしたのは彼で、止めたのは俺だった。


 夢の中で笑った彼女が、今、目の前で泣いている。彼女の涙を見たのは随分と久しぶりだった。人のために泣ける人だと知ってはいたけれど、昔はよく俺のために泣いてくれていたけれど、それでも未だに慣れることは無かった。

「かんだ、」

彼女の声に背筋が違和を感じて粟立った。濡れた瞳が少ない光を拾って煌めいている。呆れる程長い間、俺は話していたらしかった。その間中ずっと、彼女は黙って聞いていた。そうしてまた何も言わず、俺の右手を取って泣いた。震える、見かけよりずっと華奢な肩を俺は抱き締めた。彼女はとても温かかった。背中に回された彼女の手が、すがるみたいに俺の服を握った。そして、ごめんねと言った。何がだろう、彼女は何も悪く無いのに。

「かんだ、わたしね」

涙に濡れた声が空気を震わせて嫌になるくらいはっきり、俺を呼んだ。


 鮮やかだと思っていた世界は慣れてしまえば別段そうでもない、ただの情景の繰返しだ。俺の脳がいちいち切り抜いて取っておいた景色も、時の流れに風化されて段々と消えていった。アルマが俺を訪ねてきたのは、彼女が泣いた日の翌日だった。彼女の涙が記憶に一点だけ鮮やかな染みを作って、しかしそれは赦されないことだと、アルマは言った。



執事と執事の会話





 急に訪ねてしまってすまない。リナリー様はまた美しくなられたようだな。コムイ様が変な虫が付くと気を揉んでおられたよ。
 なぁ、いつまでだんまりを続けるつもりだよ。お前は全て知っているんだろう。あの日、何が有ったのか。何で教えてくれないんだ。なぁ、なぁユウってば。こっち向けよ!…お前だけ抱え込んで、何でなんだよ。知る権利は有るはずだ、覚悟もできてる。お前がこれだけ渋るのにちゃんとした理由が無かったことは無いから、今回も何か言えない訳が有るのは解ってる。それでも、

「やめろ、アルマ、俺には言えない」

…そうか、私に言えないのならお嬢様にも言っていないんだな、それともあの人には言ったのか。お前はあの人に尋常でない程の信頼を寄せているから。そんなにあの人が大事なのか、ユウ。私よりも?何度も言わせるなよ、お前と私はただの孤児で、あの人はリー家のお嬢様だ。コムイ様に情けを掛けていただいただけの私共では身分が違うのだ。生きてきた世界も糧としてきた空気も、何もかも。そう怖い顔をするなよ。事実なんだ、仕方が無いだろう。それとも何だ、お前は本気であの人を想っているのか。

「…お前には関係無いだろ、」

関係大有りだ、馬鹿野郎。ふざけるのも大概にしてくれ。ユウ、お前だって分かっているんだろう。どれだけ足掻いたって所詮実験用マウスだった私達に太刀打ちできるような運命じゃあ無いんだ。高嶺の華は鑑賞するだけで留めておくに越したことは無い。もう何度もそうやって諦めてきたじゃないか。他人には当たり前の幸福も、誰かに愛されることも、私達には勿体無い。そうだろう?ああ、何だってそんな顔をするんだ。舌打ちする癖は昔からずっと変わっていないのに、お前はそれ以外殆んどみんな変わってしまったようだ。変化を責めている訳じゃあ無いんだ、向上は良いことだもの。そう、リイラお嬢様の勉学もこの頃向上の一途を辿っているから、コムイ様がとても喜んでおられるよ。奥様は親馬鹿だと呆れておられたが。けれど、けれどお前は、違う、進化に似た停滞と停滞に似た退化とを繰り返しているだけだ。ユウ、私は自分が少し、ほんの半歩でも、進めていると自負しているよ。コムイ様やお嬢様達のおかげだ。勿論、リナリー様にもたくさんの優しさを頂いて、私は今ここに立っている。お前だって同じだろう、お前を闇の底から救って下さったのは誰だ?リナリー様に他ならないだろうに、お前はあの人を困らせるのか。いいか、ユウ、もう一度言うぞ。あの人はお嬢様で、お前は一介の使用人に過ぎない。お前がどれだけあの人へ想いを寄せようとそれが叶うことは無いし、到底許されることでも無いんだ。

「…るせぇ、黙れよ。んなこと言われなくても分かってんだよ」

いいや、分かって無い。そんなにあの人が好きなのか、本気で想っているのか、現実から目を反らすな、ユウ。お前の気持ちが本当なら、私はあの人を殺してしまおう。私はお前を今でも唯一無二の仲間だと思っているし、その仲間が傷付くのはもう見たくないんだ。分かってくれ、なぁ、頼むから。目を覚ませ!


 すまない、取り乱してしまった。やはり私も向上の無い人間なのかもしれないな。ユウ、何故そんなに泣きたそうな顔をするんだ。眉間に皺を寄せるなと、あれほどリナリー様に言われていたじゃないか。今日のことは忘れてくれ。また、会いに来るから。その時はきちんと話をしよう。過去に執着はしたくないけれど、あの日だけはどうしても知らなくてはならないような気がするんだ。ああ、もう帰らなくては。リイラお嬢様がお待ちだ。お前もリナリー様をお待たせしているのだろう。悪かったな、余計な時間を取らせてしまった。それでは、また。


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