もしものお話


執事とお嬢様の会話




 さあ、お嬢様、暖かいジャスミンティーがはいりましたので、ガトーショコラはいかがですか。今日は暖かいですから、お庭を眺めながらベランダでティータイムといたしましょう。お嬢様のお好きなアイリス(あやめ)も綺麗に咲いております。わざわざ日本から仕入れたのだと、コムイ様が仰っておられましたよ。私ですか。そうですね、ご一緒させて戴きます。本日のガトーショコラはお嬢様の叔母様が手作りされたということですから、私も実は食してみたいと思っていた所なのでございます。
「叔母様は来ていらっしゃらないの?」
ああ、申し訳ございません、お嬢様。先程お見えになられたのですが、お嬢様が眠っておられましたのでまた来ると仰ってお帰りになられたのでございます。私といたしましても暫しの間留まっていただけると幸いだったのですが、何分急いでおられるようでしたのでお引き留めすることは叶いませんでした。そうむくれないで下さいませ。叔母様もお忙しくていらっしゃいます。今日はたまたま近くに用が有ったからとわざわざおいでになられたのですよ。叔母様もお嬢様とお話できなくて残念がっておられました。
「むくれてなんかいないわ、それより、ねえ叔母様はあの人と一緒だった?」
あの人…ええ、ご一緒でした。
「そう、やっぱり!叔母様はとてもお綺麗だもの、あの人ともきっとお似合いになられ、」
お嬢様。その様なことを仰ってはなりません。あれは叔母様の執事にございます。一介の使用人に恋慕を募らせるなど、あってはならないのです。よろしいですか、もう仰ってはなりませんよ。
「…分かったわ、ごめんなさい」 いえ、お嬢様、分かって頂ければよろしいのです。私も少し取り乱してしまいました。申し訳ございません。
「ね、貴方の昔のこと聞いても良いかしら。あの人とも関係があるのでしょう?」
興味がお有りなのですか、お嬢様。私の過去など、面白くありませんよ。それよりもジャスミンティーのお代わりなどいかがですか。それともお庭をお散歩なさいますか。外套を持って来させましょう。
「いいわ、私は貴方のことを聞きたいの」
そうですか、仕方ありません。お嬢様は頑固でいらっしゃいますから、一度言い出すとお変えにならないのは私も十分承知しております。
「頑固なんかじゃないわよ、さ、話して頂戴」
はい、それではお話させていただきます。
 私に名前は有りませんでした。強いて言うならばAー88K111という識別番号を付けられて、無謀と言われた実験の過程でたまたま発生した生命をその実験室で磨り減らしながら生きてまいりました。私が生まれてから数年を過ごした其処の主は俗に言うマッドサイエンティストで、私は幾度となく脱走を試みました。その度に捕えられ、罰を受けて実験へ戻される循環の繰り返しでございました。ああ、そう言えば昔、まだ出会って間もない頃でしたか、お嬢様がその科学者が嫌いなのかとお尋ねになられたことがありましたね。その時私はお答えすることができませんでした。解らなかったからでございます。あの頃の私は名前も持ち合わせておりませんでしたが、それこそ感情さえ失っている状態でした。情けない話ではありますが、何も無かったのです。しかし今であればお嬢様の質問にお答えすることが出来ます。どれだけ人道に外れた実験であろうと、彼の実験で私は生まれました。偶然の産物では有りましたが、私の生命が彼の行為によって成り立ったのは事実でございます。私にとって彼はただ1人の父でございました。ですから、恨んだことなど一度もありませんでした。幼少期を過ごしたあの実験室も薬品の臭いも、忘れたことはございません。恐怖に駆られ苦痛に引きつった仲間の顔は、今でもはっきりと思い出すことが出来るのです。それでも、恨んだことなど。彼の実験で私は生まれ、お嬢様に出会えた。寧ろ、感謝さえしている程なのでございます。いえ、ご機嫌を伺うようなつもりでの言葉ではございません。本心でございます。
 そう、それから、私の居場所は突然に無くなりました。何が起こったのか私にもよく分かりません。確かに何かが有ったのです。気付けば荒野に2人、私は仲間に手を握られておりました。唯一の仲間は泣いていたようでした。ええ、仲間というのはお嬢様が気にしてらっしゃったあれのことにございます。見覚えのある建物の残骸と瓦礫の上へこれもまた見覚えのある誰かが倒れているようでしたが、助けに行こうとする私をあれは制して“行こう”とだけ言いました。私はあれに手を引かれるまま、その瓦礫の山を後にしました。何も知らず、助けも出来ず、不甲斐ない自分が悲しくなって俯くまで、私は自分が血塗れであることに気付きませんでした。よく見ればあれも血塗れでしたが、私の血はどうも自分のものでは無いようでした。
 申し訳ございません、お嬢様。気分を害してしまいました。何が起こったのか私には最後まで、今でも分かりません。あれは何も教えてはくれませんでした。そうですね、後はかいつまんでお話することに致しましょう。何日も懸けて荒野を抜けた私共は、小さな町へ辿り着きました。そこからはお嬢様もご存知の通り、コムイ様の慈悲深い情けを掛けられて、この家へ召し使いとして雇っていただいたのでございます。まだ幼かったお嬢様はあまり覚えておられ無いかもしれませんが、執事として相応しい身なりと所作になるため、それはもう大変厳しく教育されたものでございました。いえ、それでも実験室に居た頃よりどれ程良くして頂いたことか。先程も申し上げたように、私が此処へ来たときは殆どの感情を失っている状態でございました。しかしコムイ様やお嬢様、叔母様の暖かい心に触れるうち、私は少しずつ心を取り戻していったのです。昔から私よりも感情の起伏が無かったあれは、私が元に戻った後も中々感情を取り戻すことはありませんでした。私やコムイ様の心配を余所に一向に笑わないあれを、叔母様は引き取ると仰いました。私もコムイ様もお止めしました。お嬢様は叔母様に似ておられるのでしょうね。一度言い出したことは貫き通すお方でございます。結局、叔母様はご自分の側にあれを置くようになられました。もう何年も前のことでございます。2人の間に何が有ったか私は存じませんが、確実に、少しずつあれは叔母様に心を開き始めました。死にかけたあれの心を生き返らせたのは、生まれた瞬間から苦楽を共にしてきた私でも、狭く暗い路地裏から救いだしてくださったコムイ様でもなく、叔母様であられました。嫉妬が無かったと言ったら嘘になります。このような歪んだ感情は然るべく抹殺してしまって、私はあれの笑みに祝福を添えてやるべきでした。それが叶わないと知ったのは私の中に未だ居座り続ける黒い感情を自覚してしまった時でございます。お嬢様、私は醜い者でございました。執事という立場を理由に、あれと叔母様は身分が違う、生きてきた世界が違うのだと幾度となく諭しました。ある時私は、沸き上がる黒い感情の勢いに任せて“お前は本当にあの人を想っているのか、それならばあの人を殺してやる、目を覚ませ”と怒鳴りつけてしまいました。ああ、物騒な発言をお許しください、お嬢様。しかしそれは私の本音でございました。確かにそうでした。するとあれは、突然に居場所を無くしたあの日のように、酷く泣きたそうな顔をいたしました。私は驚きました。その顔を見るのはあの日以来何年ぶりか分からないくらい、長い間見ていなかったからでございます。それから、あれはあからさまに叔母様との会話を避けるようになりました。勿論執事として必要最低限の会話は交わしましたし、あれは元から無口な男でしたから他の使用人達はあれの微細な変化に気付きはしなかったでしょう。しかし少なくともコムイ様と私は気付いておりました。叔母様もそうでしょう。叔母様は心優しく、寛大で強いお方です。あれがどれだけ無関心な態度を取ろうと、変わらない愛を以てして接しておられました。その笑顔が一介の使用人に対して向けるそれに相応しいかそうでないか、私には判断しかねました。叔母様は恐らくあれを―――いえ、そのようなことはありません。断じて有ってはならないと、私は先にお嬢様へ申し上げたばかりでした。
 ああ、少々話が長くなり過ぎましたね。お嬢様、そろそろ勉強もなさいませんとコムイ様に怒られてしまいます。先生からも昨日の復習をするよう仰せつかっておりますし。
「お父様は私のこと叱ったりしないわ。それより続きを話して、アルマ」
いいえ、リイラお嬢様、続きはございません。これで私の昔話は終わりでございます。さあ、お勉強なさってください。しっかり勉強して明日おいでになるマリ先生から及第点を頂いたら、リナリー叔母様がお嬢様を訪れてくださるようにお願いしてみましょう。ラビ様とアレン様ももうすぐ旅から戻られるはずですから、コムイ様が皆さんを招待してパーティをお開きになるやもしれませんね。
「…分かったわ。リナリー叔母様のこと、約束よ」
ええ、約束にございます。叔母様はお忙しい方ですが、それ以上にリイラお嬢様のことを愛しておられますから。きっと、喜んで訪ねて来てくださるでしょう。すっかり陽も傾いてしまいました。少し寒くなってきましたね。中へ入りましょう。お嬢様が風邪でもお召しになろうものなら、コムイ様が大変心配なさいます。今日お話ししたことは、私とお嬢様だけの秘密にして下さいませ。
きっと、約束ですよ。


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