気付いたんだ、


 朝、起きてカーテンを開け放した俺の目に、一番に飛び込んできたのは真っ白な世界だった。日めくりのカレンダーは2月の始まりで止まったまま、そういえば今日は何日だっけと開いた電子機器に表示されたのはブロック体の14で、何となく溜め息を吐いた。

「ツッくん、朝よー」

階下から明るい声で名を呼ばれる前に目覚めるようになったのは何年前だっただろうか。母親を欺いてあんな裏家業をやっていることに対する罪悪感には未だ慣れることは無いけれど、こうやって平和な朝を迎える度にありったけの感謝を何処かの神様へ述べるのには慣れてしまった。もうツッくん、なんて歳じゃあ無いのだけれど。温かいトーストの香りには、そんなことどうだって良いかなと思えるだけの効果が有るらしかった。



「はい、バレンタイン」

階段の下で待ち構えていた甘い匂いに思わず綻ぶ口元を抑えながら、最初から用意していたありがとうを返した。そういえば、去年の今日は誰と過ごしたんだっけ。一昨年は、その前は?今見ている目の前の光景は、小さい頃から見慣れた沢田家の景色と母の笑顔だった。けれど、そうだ、あの日は、2年程前のあの日は、違う景色を違う人の隣で見ていた。

 出会いは最悪だった。紅い瞳に教えてもらったことと言えば恐怖ぐらいだ。多分向こうだって、俺のこと良くは思っていなかっただろう。寧ろ激しい憎悪の対象として、恨むべき糞餓鬼としてその炎を燃え上がらせたはずだ。それなのにどうして、なんて今でも分からない。気づけば考えていて、踏み留まろうとした俺を、しかし乱暴に抱き締めたのは奴だった。何とも奴らしい、強引な愛情表現が愛しくて堪らなかった。クリスマスは北極に拉致されて、オーロラっていうのを初めて見た。金持ちの感覚はどうもよく分からない。お返しに新年は羽子板をして、顔中真っ黒にしてやろうと思ったら逆に真っ黒にされてついでに爆笑された。どうやら俺には敵わない相手だってのが解ってしまって、だからバレンタインは大人しく、ルッスーリアに分けてもらったクーベルチュールチョコレートでウィスキー・ボンボンを作ってやったら、頬を薄く染めて俯くものだから、思わず可愛いなんて言ってしまった。案の定、御曹司様のご機嫌は損ねてしまった訳だけど、それでもホワイトデーは楽しみにしとけみたいなことを言われて、ちょっと嬉しかったのを覚えている。ああ、失うなんて知らなかったんだ。だって奴があんな風に笑うのを、一度きりしか見られないなんて。考えの甘い俺じゃ無くたって思いもしないだろ。
 ホワイトデーに返ってくるはずだった綺麗な飴細工は、ずっと前にすごいねなんて言いながら2人で見たテレビ番組のそれで、銃弾に粉々になってはいたけれど焼け焦げたラッピングと一緒に今でも棚の奥で眠っている。あのボスならお返しは俺だとか言いかねないから、それだけはよした方が良いんじゃないかしらって、先制はしておいたのよ、なんて言われて、普段の俺なら確実ルッスーリアに感謝しているはずなのに、あの時の俺はそれが出来なかった。もしもお返しが彼だったなら、焦げたラッピングに辛うじて残ったイタリア語の文句に泣くことも無かっただろうから。
 どうして今こうやって自分だけが温もりに包まれているんだろう、奴はまた独りぼっちだろうか、孤独なその心に寄り添おうと決めたのは他でもない俺のはずだったのに。奴の温もりを、俺の手はもう覚えていない。忘れたいと思ったことは一度も無いけれど、人間の記憶力ほど当てにならないものは無いんだ。今日みたいな寒い冬の日は、いつも手を握った。俺のよりずっと大きい奴の手のひらが握り返してくれるその温度を、俺は幸せに置き換えて笑っていた。2年、そうやって残っているはずの記憶を掘り起こして、ひっくり返して、幸せだった温度を探すのももう限界らしい。

 日常に溶け出したチョコレートはドロリと視界を覆って、俺は息が苦しくなる。もういっそ、投げ出せたならどんなに楽だろうか。けれどそれをするには、俺の椅子は大きすぎた。信頼する仲間がいる、慕ってくれる部下がいる、ぐちゃぐちゃした感情で俺を見上げる眼差しがある。軽々しくやめた、なんて出来やしない、だって俺はこの場所が好きだった。

 止んでいた雪がまた降り始めた。手のひらで溶けかけたチョコレートの存在に、俺は現実を知る。
ごめんなXANXUS、俺はまだそっちには行けない。








 気付いたんだ、生きるということは君を忘れていくことなんだって、
(死にたくなった、ある冬の朝)


TITLE by マダムXの肖像


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