堕ちた悪魔
![](//img.mobilerz.net/sozai/1617_w.gif)
周囲の人間に、恨まれ憎まれ嫌われこそすれど、誰かから愛されることも誰かを愛すことも、ただの一度も無かった。少なくとも16の歳になるまでは、疎まれる以外の感情を感じたことは皆無に等しい。
初めて、曲がりなりにも愛と呼べる感情を向けられたのは己がまだほんの幼子の頃の話で有って、それも後に愛と偽った同情だと知った。
視界を鮮やかに染め上げた朝焼けがチロチロと銀に映えたのを見て、ザンザスはふとその先に据えられている筈の同色の瞳を覗き込みたい衝動に駆られた。
付いていくのはあんただけだと、傲慢に弧を描いた薄い唇に噛み付きたい、八年前から変わらず滑らかな白い肌に己の物だという証を刻み込みたい。
しかしそれは所詮叶わぬ虚夢であることを、ザンザスは恐らく知っていた。何故ならばその朱に染まる銀の先に在るのは彼が望む双眸では無く、まして薄い唇でも白い肌でも無いことを、彼が一番よく解っていたからである。
それでもそんなものを夢見てしまうのは、彼の命火がもうすぐ消えてしまうからかもしれない。
じくじく痛む脇腹が辛うじてザンザスを現実に留めていたが、それさえも麻痺する感覚の中で薄れていくのに、最悪の誕生日だと彼は自嘲と供に溢した。
朱に染め上がった視界に映る銀の銃口が、それを掴む彼の節くれだった指と黒く陰った男の指とを鈍く照らす。
この色の銃を使う、心当たりの有るファミリーはつい最近ボンゴレ本家と同盟を組んだばかりの弱小ファミリーだけだった。
胡散臭いドンを筆頭に、権力に媚びるばかりの輩を数百抱え込んだだけの気に留める価値もない彼らは、何を血迷ったか独立暗殺部隊のボスである彼に牙を向けてきた。それとも最初から捨て弾のつもりで組んだ同盟だったのだろうか。彼らを邪魔に感じている本部の連中はざっと見積もってみても50はくだらない。
カランコロンと鈴の音が、朝焼けに静まりきった森の、樹と鳥と獣とを揺さぶりながら叩き起こしながら染み渡った。
男は嬉しそうに口角を持ち上げた。
同じ森でも、ザンザスの城を取り囲む見馴れた、知り尽くしたそれとは全く異なった空気が流れる。
自室から見下ろした其処には緋など無かった。いつだって銀は近くに在ったけれど、こんなに殺気を漂わせて向かい合ったことは無かった。
背景のどこまでも深い緑が揺れて、それに伴う銀糸の波が此処には無い。
「tu lui」
紅い視界に唯一黒いその男はまだ若い声を殺人の興奮に上擦らせ、言った。
銀のトリガーに掛かった指先が動くのとザンザスの手がそれを弾き飛ばすのと、ほとんど同時に為されたそれらは一瞬、ほんのコンマ1秒ほどの差でザンザスのスピードが勝った。
「…カスが、」
最期の力で動かした腕が、ダラリと力なく墜ちる。黒の男はそれを見て自分が勝ったのだとばかりにヒステリックな笑い声を辺りへ響かせた。
ザンザスは紅から闇へと移り変わる視界の中で、途切れた笑い声に聞き慣れたダミ声が重なったのを幻に感じながら、ゆっくりと意識を手放した。
鮮やかな紅だった。
彼の瞳よりも数倍澄んだ、この色が奴の身体の中を本当に巡っていたのかと疑問に感じるくらい、鮮やかな紅だった。
動脈でもやられたか、やけに地面が紅ぇじゃねぇか、にしても五月蝿く笑う野郎だ、そんなんじゃあ暗殺者なんぞと名乗るだけで恥だろうに、嗚呼、今日はやけに頭が冴えてやがる、あそこで倒れてんのは、ありゃあ本当にうちのボスかぁ、
脳裏に浮かぶのはそんなことばかりで、恐ろしいくらいに冷静な彼の脳が焦ることはなかった。
「黙れよ、」
利き手が在ったはずの場所に、今は剣が填まっている。
スクアーロは笑い止まないその男の腹部を一突きしてから、ありったけの力で投げ飛ばした。その場へ倒れ込むことは許さなかった。己の主の横に敵を横たえるなど、この鮫がどうして許せようか。
足元に倒れているのは、しかし紛れもなくザンザスであった。それを見てもやはりスクアーロは慌てなかった。逆に、脳が更に冴えていくようにさえ感じた。
「いつまでおねんねなんだぁ、ボスさんよぉ」
ザクリ、枯れ葉の踏まれた悲鳴が地面に掠れて、わざと気配を消さずに彼は主の隣へ膝を着いた。
主は目を開かなかった。
「…帰るぞぉ、」
ザクリ、ザクリ、故意に消さない気配が1つ、不本意ながら消えかけた気配が1つ。
枯れ葉の悲鳴は鳴り止まない。
ここでスクアーロは、忠実なザンザスの鮫は、ようやっと嫌な汗が背筋を撫でたのを感じた。永訣の瞬間がすぐ側まで迫ってきているようで、それでいて、そんなことは無いと全身全霊を持って否定するのに、十分な理由をスクアーロは今見つけてしまったのであった。
負うた体温が、普段ならば殴られる痛みを伴った一瞬だけしか触れられないその温度が、体内に炎を巡らせた高い常温が、だんだん冷えていくのに、それを止めてやりたくて擦った手の甲が力なく震えた。
「ザンザス…?」
主から答えは返ってこなかったけれど、スクアーロはその歩調を速めた。彼の気配は既に消えていた。
「ボス…!?」
出迎えたルッスーリアが言葉を詰まらせてスクアーロに負われたザンザスを凝視した。スクアーロは無言のままにルッスーリアを見つめ、彼も任せなさいとでも言うように大きく1つ頷いた。
鮮やかだった紅は固まって、赤黒くザンザスに張り付いていた。微かな胸の上下と唇の微細動とだけが、まだ彼が生きている証拠だった。
森は、静かだった。
地面を彼の悪名高き暴君の血で染めたそれとは、東西において対極の、1つの森であることは変わらないにも関わらず、だ。
スクアーロはあからさまに眉を潜めて廊下に立っていた。そこから見える夕焼けは、今朝がた見た朝焼けにそっくりな朱色で銀を照らした。
地を覆う緑の樹木が風に靡くたび、反射した朱がどうにもザンザスの鮮やかな紅を思い出させて、彼の心を蝕んだ。
「スクアーロ、」
声の主へ移る視線が冷ややかなのに、彼はいつものように微笑んで見せた。
「ボスの手術、終わったわよ」
元より手術の成功か否かを危ぶんでいたわけでは無かった。職業柄、戦闘力だけでなく医療にも長けざるを得ないこの世界で、身体に残った弾丸の1つや2つ取り除けないような医者はよっぽどのモグリか経験不足だ。
ヴァリアーも例外では無い。
ボンゴレ本部に負けず劣らず高度な医療技術を有した彼らは、主の命を救うべく持ちうる技術の総てをこの手術に動員したのだった。
「で、どこに居んだぁ」
スクアーロはルッスーリアに問いかけながら、既にザンザスの自室へと歩き出していた。
「分かってるじゃなぁい」
背後に彼の穏やかな笑い声を聞きながら、スクアーロは己の歩調が速まるのを感じた。
淡い照明の下で目を覚ましたザンザスは、その視界に紅でも黒でもない見馴れた天井の白を見つけた。それから、首を横に90°傾けて己の隣に流れる銀糸を見つけた。
隊服の黒が喪服のようで、縁起でもないと睨んだ先に爛々と鈍く光る灰色の双眸が待ち構えていた。
「やっとお目覚めかぁ」
この男の笑みはいつでも高慢で、暗殺者にはもってこいだ。
生死の境をさ迷いながら、微かに聞こえた掠れ声と触れた体温を所有するのが誰であるか、ザンザスは考えずとも分かっていた。彼もスクアーロと同様に、その存在を求めるのに十分すぎる理由を見つけ出してしまったのだ。
「カス、―――スクアーロ、」
2人には、名前を呼ぶだけで十分だった。それだけで伝わる程、彼らは気付かぬ内に深くまで互いを解っていた。
「Boun Compleanno,XANXUS」
愛してると吐き捨てた薄い唇に今度こそ噛み付いたザンザスは、その口の中で受け取った感情を、絡まる舌の内に持て余した。
堕ちた悪魔
(あんたには愛ぐらいがお似合いだろうよ)
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