嘘つきの最後の嘘

 其処から、空は見えなかった。ただ黒い水底が2人を静かに見上げていた。


「…放せよ」

突き放すように、彼は言った。けれどその声の中にそんな響きは微塵も含まれてはいなかった。艶やかな黒髪はいつものように後ろで束ねられている。

「放したら、行っちゃうんでしょ?」

彼の無言を彼女が肯定以外に解釈したことは無かった。そしてこの時も、彼が差し出した沈黙を彼女は肯定と受け取って言った。

「だったら嫌、いやよ」

懇願するように力を込められた彼女の手のひらは、彼の服の裾を握っている。彼女よりも幾らか高い背丈から、溜め息が落ちた。瞼に溜まり始めた水分はすぐに彼女の瞳を覆って、今にも溢れそうだった。堪えようと噛み締めた唇が震えていた。

「いやだよ、神田」

彼はしかめた眉を隠しもせずに彼女を見下ろした。地下水路よりも深い黒の瞳は、不安げに揺れながら彼を捉えた。


「俺は1人で生きる、もう決めたことだ」

今度こそ彼の声には突き放すような響きが含まれていた。彼女の指から力が抜けるほんの一瞬を逃さずに、彼はその拙い拘束から抜け出した。

「かんだ、」

彼女はもうその裾を掴もうとはしなかった。代わりに自分の拳を握り締めて彼の名前を呼んだ。


「生きてね」


2人の間の長い静寂の中で、水路の流れがいやに耳についた。彼女は彼がもう此処に残ってはくれないことを知っていた。彼の心を誰が拐って行ってしまったのかを知っていたのだ。

「リナ、」

とても、とても長い静止の後で、彼はいつもそうするように、彼だけが呼ぶ彼女の名前を唱えた。彼女は微笑った。ひどく儚い、可憐な微笑だった。








 突き抜けるような青が頭上に広がっていた。AKUMAの残骸から見上げる空は、雲一つ無い晴天だった。昔のことを思い出していた。傍らに飛ぶ通信用ゴーレムのけたたましい悲鳴で、彼女は現実へ引き戻された。

“リナリー、急いで戻って下さい!”

アレンの声が、彼女の鼓動を加速させる。珍しく焦った声だった。嫌な想像が彼女の頭を過った。

「なに、アレン君どうしたの!?」

宙に浮かぶゴーレムが緊張を纏った静寂を彼女に伝えた。いつものホームの喧騒が今だけは恐ろしいほどの沈黙を保って、アレンの背後に広がっている。

“………神田が、”

彼女にはそれだけで十分だった。浮遊していたゴーレムを掴んで、彼女は疾風の如く駆けた。言い知れぬ不安が彼女を突き動かしていた。彼がホームを後にして、もうすぐ1年が経とうとしていた。




 夜の帳が落ちて、ホームはより一層暗く黒く見えた。空へ浮かぶ三日月が世界を見下ろして薄く笑っていた。

「リナリー!!」

顔を強張らせたアレンが帰還した彼女を真っ先に見つけて叫んだ。周りの空気が固まった、少なくとも彼女と彼を昔から知っていた人々は、彼女の姿をその視界に認めると息を詰まらせた。

「アレン君、どうしたの、一体何が…!」

「リナリー、落ち着いて、聞いてください」

アレンは彼女の両肩に手を置いて言った。

「神田が、見つかりました」

彼女の頭の中でアレンの言葉が何度も反芻された。その場に崩れかけた彼女をアレンが支えた。彼女の瞳から、雫が1つ落ちていった。

「かんだ、生きて……?」

「…っ、病棟に、居ます」

危険な状態だとアレンが言った。今は会うことさえも出来るかは分からない、と。それでも彼女は行くと言った。彼女の頬を濡らした雫は、もう彼女の瞳を輝かせてはいなかった。



 ここから先に進ませる訳にはいかないと、医療班が彼女の前に立ちはだかった。皆、沈痛な面持ちで彼女を止めた。誰もが通してあげたいと、心の中では思っていた。

「お願い、神田に会わせて…!」

いくら駄目だと言ってもなお食い下がる彼女に、溜め息を吐いたのは婦長だった。

「リナリー1人だけなら、入っても良いわ」

婦長も、昔から彼女と彼を知る人物の一人だった。厳しさは優しさゆえであることを彼女は知っていた。

「あの子に会ってあげて、リナリー」

そして婦長も、彼女の強さは優しさゆえであると解っていた。

「ありがとう!」


彼女は病棟の奥へと進んだ。固く握り締められた手のひらは小さく戦慄いていた。この先に、彼が居るのだ。

「…かんだ?」

果たして彼は、しょっちゅう大怪我をして帰還する彼女でさえ見たことも無いような医療機器に囲まれて、其所に横たわっていた。無機質な機械音が彼女の鼓膜を震わせる。腕にはたくさんの点滴が刺さっていた。彼の能力を以てしても太刀打ち出来ないような怪我を、命の危険を彼は抱えていた。

「かんだ…っ、」

彼女の呼び掛けに、彼は微動だにしなかった。微かに上下する体だけが、彼の生きている証だった。
「生きるって言ったじゃない、嘘なんかじゃ無いでしょっ」

あの日も彼は無言だった。けれど彼の瞳は、確かに彼女を写していた。今、その瞳は閉じられている。

「かんだ…いやだよ、ねぇ、かんだってば、」

彼女の涙声が白い病室に響いた。彼の包帯だらけの体に、彼女の右手が優しく触れた。包帯越しに伝わる低い体温に彼女は少し安心して、もう一度かんだ、と呟いた。


「………ん、」

小さく痙攣した彼の瞼が、ゆっくりと、しかし確実に開いて、瞳へ白い天井を写した。自分の置かれている状況を咀嚼するように視線を巡らせて、彼女を捉える。

「かん、だ?」

「…リナ」

規則的に音を刻む機械音が彼の頭に響いた。彼女は手を伸ばして彼の頬を撫でた。触れられると目を細めるのが彼の昔からの癖だった。

「先生、呼んで来る…っ」

「リナ、」

立ち上がろうとした彼女を、彼の声が止めた。彼が腕を伸ばす。

「リナ、」

彼は自分の視界がひどく不安定になるのを感じた。彼女をしっかり見たいと思ったのに、歪んでしまってよく見えなかった。

「俺は、お前に嘘をついた」

彼は彼女を抱き締めて言った。彼女は怪訝そうになに、と問うた。

「……放すな、」

彼女は笑った。幸せそうに微笑んだ。

「おかえりなさい、神田」



(君は微笑った、僕もつられて少し笑った)



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