「俺が」

 室長の変人趣味な個人研究室が有るフロアは、得体の知れないおぞましさのせいで誰も近付かない。所有者はいつだって仕事に追われているし、例え逃げ出してみても班長以下科学班のメンバーが総力をあげて探し回るから、まず逃げ切れた試しが無かった。昼夜問わずしんと静まり返ったその空間が、彼の隠れ場所だった。
心配症な幼馴染みとも、厳つい婦長とも、白髪頭のモヤシとも離れて、座禅を組む時には出来ない思案を巡らすのがその場所で彼が唯一行うことだった。冷たい廊下の床に座って、壁に凭れる。彼だけが知っている彼の感情も、彼にさえ解らない彼の感情も、止めどなく溢れるそれらは仏頂面の下に隠された彼が生きていることを示していた。

「ゆーう、」

聞き慣れてしまった己のファーストネームを呼ぶ声が、彼の思考を遮って廊下に響いた。舌打ちすることも、視線を向けることすら億劫で、意識だけ向けてやった相手は恐らくいつものようにへらへらと笑っているのだ。彼は舌打ちの代わりに盛大な溜め息を一つ吐いた。

「うぜぇ、あっち行け」

「嫌だ」

即座に降ってきた声が彼の不機嫌指数を大幅に増加させていく。睨み上げた相手はしかし予想していたようなへらへら笑いを浮かべてはいなかった。


「こーんな顔してるのにほっとけんさ」

むに、なんて間の抜けた効果音で摘ままれた頬が少しの痛みと熱を訴えて赤く染まる。下垂して微笑む瞳が威嚇して睨む彼の目を捉えた。

「ユウはいっつも、独りで抱えすぎ」

頬から離れた指が彼の長い髪を撫でて、呆れたような声は彼の隣へ落ちた。右側の体温が、皆いるのにとか何とかぶつぶつと呟くのを聞き流しながら、彼は無意識の内に右半身へ集中していた全神経を正常に戻そうとやっきになっていた。これもまた、彼にも解らない彼の感情だった。

「…頼れるかよ、誰も」

彼が頼るには、この世界は脆すぎた。彼が頼るには、この戦場の住人はあまりにも儚すぎたのだ。彼がその肩に背負っている荷物を少しでも分け与えたら、すぐに潰れてしまいそうで嫌だった。結局彼は自己解決だけを唯一の手段として、そこへ誰も立ち入らせないことで彼の世界を守っていた。殆どの住人は気付いていない、彼の不器用な優しさだった。
それでも、と右隣の体温は言った。


“俺が”頼られてぇの




 誰も知らない筈の彼の隠れ家に2人分の声が聞こえていた。誰も知らない筈の彼の感情に唯1人気付いた男は、バカ兎と罵った彼の口をふさいだ。



(( 鮮血の代わりに愛の調べを ))


確かに恋だった
差し伸べる彼のセリフより

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