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「道で拾って来たんだけどね」


 私達の茶屋の近くで物騒なことが起こったと、京への長旅を終えて一服していた旅のお人が言った。華やかな京の都でも、その裏でたくさんの思念が渦巻いているのは誰もが知っていることだったから、どうせまたそっちの関係の奴らが騒ぎを起こしたんだろうってその人は呆れたみたいに溢していた。それでもやっぱり心配だからとお昼の忙しい時分を過ぎた頃、近くまで見に行った兄さんが帰ってきたのはもう夕方近くのことで、その背中には傷だらけのお侍様が背負われていた。

「お医者様を呼んでくるから、ちょっと看ててくれるかい」


長い髪を高く結わえ上げたお侍様は、斬られた傷が痛むのか時折苦しそうな呻き声を漏らした。紅く染まった着物はずたずたに斬り裂かれていて、黒髪は所々ほつれてしまっている。浅い息の下で何度も、主人らしき人の名前を呼んでいた。顔にこびりついた血を拭き取りながら、手が震えるのを必死で我慢した。死なないで、お願い生きて。忙しくなる心臓が苦しくて、兄さんがお医者様を連れて戻ってくるまでずっとお侍様の手を握っていた。



 峠は今夜、上手くいけば陽が昇った頃に目を覚ますだろうと言われて、兄さんは明日の朝早くから起き出さないといけないから私がお侍様を看ておくことになった。息はまだ随分と浅く細かったけれど、お医者様のお陰で痛みは幾分か和らいだようで、もう唸ったりすることは無かった。
これなら大丈夫だろうと油断していたのかもしれない。突然だった。それまで小さく繰り返されていた呼吸が急に荒くなって、苦しそうに顔が歪んだ。すがるように伸ばされた腕が頼り無くて、握り返した掌は冷たかった。お侍様の頬に一筋涙が伝ったのをそっと拭いて、大丈夫と何度も呟いた。大丈夫、大丈夫、此処に居ますよ、ちゃんと生きていますよ。お侍様の望んだ命では無いけれど、貴方に生きて欲しいと願っている人間が確かに此処に居ることを伝えたかった。
私の声が届いたかどうかは分からない。暫くしてまた安定した呼吸を繰り返し始めたお侍様の手をそっと外して、朝焼けの香りがしはじめた外界に小さく安堵の溜め息を吐いた。きっともう大丈夫、この人は生きていてくれる。なるべく音を立てないように障子戸を開けながら、もう一度大丈夫、と呟いた。



 目を覚まして部屋の中を探るように見回したお侍様が何を探しているのか、すぐに検討がついた。まだ動いてはいけませんと遠回しに先制したら睨まれて、その視線がまるで傷つけられた虎のように激しくて哀しくて、どうにかして救ってあげなければと思った。

「ひどいお怪我だったんですよ」

けれどどうすれば良いのか分からなくて、微笑うしか出来なかった。伸びてきた腕は心なしか震えていて、その瞳は私を介して誰か他の人を見ているようだった。恐らく殺されてしまったのであろう主人だろうか、それともお国に置いてきた恋人か、何にせよ少し寂しくて、何故だか胸がじくりと痛んだ。



 握られた掌の感触が今でも残っている。どこか遠くを見つめていた瞳をゆっくりと瞼が覆って、長い睫毛がその周りを縁取った。そのまま深い眠りに落ちたお侍様は、夕刻、身体に付けられたたくさんの傷のせいで熱を出した。お医者様はじきに下がるから薬を飲ませて安静にしていなさいと仰ったし、兄さんも大丈夫だろうと言っていたけれど、苦しそうに息をするお侍様がとても辛そうで、水を張った桶と手拭いを準備しながら心臓がまたどくどくと嫌な脈を打っていた。


「何か、お食べになりますか」

日中は眠れないのか、布団の中で目を開けていることが多かった。お粥か雑炊か、少しでも口に入れた方が回復も早いからと勧めるのに、お侍様は食欲が無いらしく、何も口にしていなかった。

「卵粥でも作りましょうか」

熱を出して三日、漸く食欲が戻ってきたのか、ああと短い答えが返ってきて、少し嬉しかった。炊事場に降りたら兄さんが居て、早く良くなるといいねと笑った。


「お待たせしました」

布団の上へ身体を起こすのを支えながら、お侍様がすまないと聞き逃しそうな小さな声で言うのを聞いた。


「…美味い、」

ゆっくりと咀嚼して飲み下した粥を、お侍様は一言、そう褒めて下さった。熱のせいかそうじゃないのか、赤くなった頬が何だか嬉しくて、私もつい頬が緩んだ。時間はかかったけれど、完食して綺麗になったお椀に、きちんと添えられたごちそうさまがまた私の胸を高鳴らせた。

「食べられて良かったです」

立ち上がって障子戸を閉める間際に一瞬、ふわりと柔らかな笑みを浮かべたお侍様が見えた。


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