消えた青鬼にキスの雨
この島を出たら、何をしてどうやって生きていこうと思っていた。狭くて不便で、取り柄なんて自然に囲まれたことくらいのここが、18になるこの年まで私の世界の全てだった。
「私ね、東京に出ようと思ってるの」
そう言った私をあの人は一瞥しただけで、すぐに視線は手元の作業に戻ってしまった。何となく予想していた範疇ではあったけど、やっぱり胸がズキリと痛んだ。
「……ラビを、追うのか」
貴方の目に私がそう写っているのなら、敢えて否定するようなことはしたくない。決して鈍くは無い貴方の目に写ったそれはそのまま私の姿で、これまでの行動だとか言葉だとか、そんなものの積み重ねの結果だと思うから。
「そう思う?」
だから曖昧にそう言った私を、貴方は見ることもしないんでしょう。少し動いた肩がせめてもの救いだった。
「あいつは飲み込みが早いって、おじいちゃんが褒めてたよ。良かったね、頑張って」
絞り出した台詞は震えないようにするのが精一杯で、最後の方はもう殆ど背中を向けて言い終わると同時くらいに走り出した。不自然だって、不審がられるのは分かってた。だけどそうでもしなきゃ、あの人の横顔は綺麗すぎて、あれ以上見てたら多分泣いちゃってたと思う。だから遠ざかる私の背中をあの人がどんな目で見ていたか、私は知らなかった。
消
え
た
青鬼にキスの雨 都会暮らしに憧れて無かったって言ったら嘘になる。華やかで楽しくて、だけど何だか想像してたのとちょっと違って、置いてけぼりにされる感覚をずっと感じていた。私よりも1年早くこっちに来てたラビは、もっと広い世界を見たいって、私がこっちに来るのと入れ換わりに海を渡った。
「大丈夫、ちゃんとやってるよ。うん、心配ないって兄さん」
心配性の兄はしょっちゅう電話をしてきて、おじいちゃんもたまに兄さんと代わって話をする。話題はいつも私の大学生活のことだとか、あっちでの兄さんやおじいちゃんのこと。この前こんなことがあったとか、あんなことをして皆と笑いあったのだとか、そんな他愛も無いような、だけどあの人のことは決して、私も2人も言わなかった。
『また暇を見つけて帰っておいで、皆で待っているから』
「うん……その内、ね」
毎回繰り返されるこの会話も習慣みたいなもので、私はこっちに出てきてから一度も家に帰っていなかった。大概ホームシックな癖に、あの人に会いたくなくて、意地を張っていた。会ったらきっと押さえ付けた想いがまた存在を主張し始めてしまう。そんな風に片意地を張り続けて1年、気付いたら帰るタイミングも見失ってしまった。
『リナリー、今すぐ帰ってきて…ッ』
私がこんなのだから、多分神様が怒ったんだ。何の前触れも無く、眠るみたいに穏やかに、おじいちゃんが亡くなった。
「おじい、ちゃん……?」
糸が切れたみたいに泣く兄が、本当はもうずっと前から駄目だったんだと言った。あの子には言うなと固く口止めされていたから、今までずっと隠してきたのだと。すがり付いて泣いたその体は、やっぱりどうしようもなく冷たかった。
「少し、歩いてみると良いよ。何も変わってなんかいないけどね」
お葬式も終わって、流す涙も枯れた頃、兄さんは私にそう言った。言われて初めてじっくりと眺めた1年前までの私の世界は、本当に何も変わっていなくて、冬の終わりの少し温かい日差しがすごく心地よかった。都会で感じる1年は目まぐるしく移ろうのに、この島にそんな忙しさは微塵も無い。おじいちゃんがずっと愛した、狭くて不便で自然に囲まれた綺麗な島のままだった。
「―――リナ、」
唐突に聞こえた、あの人しか呼ばない私の愛称に素直に振り向けてしまったのは、きっと何も変わらないこの島のせいだ。
「泣いてたのか」
枯れたと思っていた涙が自然とまた溢れていたのも、あの人との距離が思っていたよりずっと近かったのにも、気づいてなかった。
「神田……」
さらさらの長い髪が風に揺れていた。目の前のあの人は少しだけ大人びていて、1つしか違わない筈の歳がもっとずっと離れてるみたいに感じた。
「1年ぶり、だね」
あの人が私との距離を詰めて、頬に伝わる涙を拭った。マメとか火傷とかだらけのごつごつした手が私の頬の上を滑って、奪われた滴の代わりに熱を残して離れていった。
「ありがとう―――ねぇ、おじいちゃんは、良いお師匠さんだった?」
「……あぁ」
「そう、良かった」
私の中でもあの人の中でも、きっとおじいちゃんは同じくらい大きな存在で、いつか来ると分かっていた別れでも、やっぱり辛い。
「ちょっと、歩かない?」
歩いても十分一周出来てしまうような小さな島で、私は生きてきた。2人とも黙ったまま、並んで歩くこの島に、私のたくさんの思い出は詰まっていた。
「何にも変わってないね、島も神田も」
兄さんだって島の人達だってみんな、私が知っている暖かい思い出のままだ。私は、変わってしまっただろうか。この島で生きてきた私は、まだ私の中に確かに残っているだろうか。
「お前も、変わってねぇよ。昔のままだ」
あの人のその一言は、私をひどく安心させた。私だけが変わってしまったような、この島を置いてけぼりにしてしまったような気がしていた。それを、そんなことないって言ってくれたみたいで、私を肯定してくれたみたいで、ただ嬉しかった。
「……ありがとう、」
手先が器用なあの人の、不器用な優しさが好きだった。頑固で無愛想なあの人が、誰よりもずっと好きで、だけどあの人が私を見ていないことも誰より知っていた。
「もっと早く、帰ってれば良かった」
抜けるように青い空が、私たちを見下ろしていた。その青があまり綺麗なものだから、私は思わずあの日の、綺麗な横顔を思い出していた。
「ねぇ、神田。聞いてほしいことがあるの」
会えばまた、抑えきれなくなるのは分かっていた。それでもこの島のせいにして振り向いたのは私だ。会いたいと、顔が見たいと思ったのは他の誰でもない、私だった。
「何だ」
1年前、せっかく抑え込んで黙らせた想いがまた、その口を開く。
「私、神田のことがずっと好きだったよ」
困らせたく無かった、なんて綺麗事で、ほんとは私が傷付くのが怖かっただけだった。すぐ隣にいるのに、あの人の顔さえ私はまともに見ることが出来なかった。
「―――リナ、俺は」
「私は神田の師匠の孫娘で、1歳違いの幼馴染みで、ただそれだけで、それ以上になんかなれないって分かってるよ。だけどね、神田がずっと前からおじいちゃんに憧れてたみたいに、私もずっと前から神田のこと好きだった、好きだったの」
言いかけた言葉を遮って一気に捲し立てた私は、そこで初めてあの人の顔を見た。私より高い位置にある顔は隠そうと俯いたって無駄で、あの人はやっぱり困ったような泣きそうな変な顔で眉間に皺を寄せていた。
「ごめんね、それだけだから」
困らせた。私の存在があの人にとって特別なのは、ただ師匠の孫娘だからってだけなのに。私は防波堤のコンクリの上を夢中で走った。これ以上、あの人の顔は見れないと思った。
「っ、待てって―――おいッ」
それなのに、逃げた私を追ってくる足音はだんだん近くなって、防波堤の端っこまで走った所でとうとう右の手首が捕まった。
「離して……っ」
走りながら込み上げてきた涙をどうにか隠そうと右手を振ってみても、力の差なんか歴然で、振り払うどころか無言のまま引っ張られた。
「かんっ……、だ…?」
「―――っ逃げんな」
斜めに傾いだ体を受け止めてくれたのはあの人の固い胸で、鍛えられた両腕がすがるみたいに私を強く強く抱き締めた。
「……どれだけ、…」
「え?」
「俺がどれだけ、お前を諦めようとしたか……分かるか?」
耳元で聞こえた少し掠れた声に、思わず肩が跳ねた。今まで感じたことの無いくらい近くにあの人の体温が有って、心臓がどんどん加速していくのが分かった。
「ずっと―――俺も、お前が好きだった」
「かんだ……?」
聞こえた言葉が信じられなくて見上げたあの人の顔は存外に近くて、一瞬、唇を熱が掠めた。
「好きだ、リナ」
触れた所から広がっていくみたいにだんだん顔が熱くなる。島の風にかき消される前にちゃんと私の耳に届いたあの人の声が、ぐるぐる頭を回った。もう一度抱き締められて、やっぱりあの人の顔は見えなかったけれど、口付けられる一瞬に見えたあの人は、苦しそうに眉間に皺を寄せていた。
「お前は駄目だと、思ってた。お前だけは、俺が触れちゃいけない存在だと思っていた」
ゆっくり、私にだけぎりぎり聞こえるくらいの細い声で紡ぐあの人が、愛しいと思った。抑え込んでいた想いが堰を切ったように溢れだして、涙に変わって私の頬を伝った。
「泣くな、」
「っ、かん……だ…っ」
肩を震わせた私に、抱き締める力を強めたあの人が優しく言った。それだけでもう胸がいっぱいで、これ以上何も望んではいけないと思った。
「……リナ、側に居てくれ」
それなのに、あの人は私にこれ以上を与えようとする。逃げたのは私なのに、あの人は私が欲しかった言葉をくれた。
「私で、いいの…?」
「お前がいい」
そう言ったあの人は、切れ長の綺麗な眩しそうに目を細めて、滅多に見れない微笑をその口元に浮かべていた。私のためだけに、微笑ってくれていた。
「悪い……もう、放してやれそうにない」
あの人の後頭部で1つに結わえられた髪が、風にさらさらと舞っていた。ああまた長くなったな、なんて思いながら、私はあの人の胸に顔を埋めた。嬉しくて、幸せで、信じられなくて、どれだけ必死に頭を働かせてみても何て言えば良いのか分からなくて、ただ私の体を包むあの人の体温が夢なんかじゃないんだって教えてくれた。
「……大好き」
耳をくっつけたらいつもよりもちょっと速いあの人の心音が聞こえてくる。恥ずかしいのに、離れたくないと思っていて、素直に口から出た言葉に自分でも驚いた。
「側に居たいよ、一緒に居たい、ずっと神田のこと見てたい」
抱きついてるせいでくぐもった声で、それでも顔が見えないからって自分の気持ちが止まらなくなった。そんな私のことをあの人はどんな顔で見ていたんだろう。自分の顔は真っ赤だった。ちらりと見えたあの人の耳も赤かった。
「っ、リナ、」
呼ばれてもなかなか顔を上げなかった私の顎をすくって、あの人はもう一度、私の唇に熱を灯した。あの人の匂いに包まれて、私はまた少し泣いた。
( ほんとはずっと、大好きでした )