君を殺したくなかった
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もう一緒には居られないのだと言った。幼い頃に見た夢を叶えるために打った芝居は、もう終わりなのだと。
『だからユウも、ただのインクだったってことさ』
生死を分けるような戦場を、幾度となく共に掻い潜ってきた俺でさえ、紙の上に綴られた膨大な量のインク、その一部でしか無かったのだ。
『俺はもう教団には帰らない、記録者の立場は揺らぐことなんか無いんさ』
記録するためにより有利な条件へ、その身を移すのに何ら躊躇いは無い。そう言ってあいつが出ていったのを俺は止めなかった。いつか訪れるだろうと感じていた瞬間が、来ただけのことだった。それなのに、どうして俺はこんなにも泣き出したい衝動に駆られているのだろう。
死にたかった、生きたくなかった、君を殺したくなかった 任務先から帰る道中、何の気なしに立ち寄った小さな町で見覚えのある鮮やかな橙を見た気がした。曲がり角の奥に消えた後ろ姿に、最後に見たあいつの背中が重なった。
「―――っ、」
思わず走り出した自分がいて、けれど冷静になっていられる程の余裕は無かった。引き留めなかったあの日の後悔が、今になって俺を突き動かしていた。
「は、?」
感じたことの有る気配が、俺の目の前を歩くあいつから発せられていた。しかしそれは、あいつが纏っているはずの無い空気で、教団がずっと敵対してきた、憎むべきそれだった。
「ノア……ッ」
俺の呟きにぴたりと動きを止めたあいつは、ゆっくりと俺の方を振り返った。あの時と変わらない、俺より少しだけ高い身長と、垂れ目がちな右の緑。
「ゆ、う」
驚きに開かれたその瞳が、俺を写していた。
「何で、ここに……」
教団からこいつの存在が消えて、誰もブックマンの話をしなくなって、もう2年になる。
「ユウにだけは、会いたく無かった」
どれだけ拒んで忘れようとしても出来なかった想いが、こいつの一言だけでこんなにも痛む。
「――お前、ノアになったのか」
頼むから否定してほしい。破壊者として生きてきた俺が、こんな感情を持つなんて思ってもいなかった。
「だから、ユウには会いたく無かったんさ」
肯定の響きが言外に感じ取れて、一瞬目の前が真っ暗になった。少しの望みをかけて見たあいつは、寂しそうに笑って俺を見ていた。
「なん、で……嘘だろ…」
「ユウ、」
「ブックマンとして生きるんじゃ無かったのかよ。何で、ノアなんかになってんだよ……っ」
胸ぐらを掴んで、あいつの目を見た。寂しげな笑みはまだ崩れてはいなかった。
「だって、仕方ないだろ……俺が望んだんじゃない、ノアが俺の中に居たんさ」
「っ、」
「俺は教団で生きたくなかった」
鮮やかな橙を風が揺らした。俺を見返す緑は、ただただ真っ直ぐだった。
「出来ることなら、死んでしまいたかった」
そう言って、あいつは俺の手にその手を重ねた。
「ユウと、殺し合いなんてしたくなかったんさ」
俺が敵だと分かったら、否応なしに戦わなければならなくなる。だから嘘をついて、教団から抜けたのだと。ユウにだけは知られたくなかったのだと。
「俺、ユウのこと、すげー好きだった」
言いながら、あいつは俺の背中に腕を回してそのまま強く抱き締めた。俺の肩に顔を押し付けているせいで表情は見えなかったけれど、その体が震えているのは分かって、やりきれなかった。
「っ……バカ兎」
「んー、」
「俺だって、お前を殺したくなんかねぇよ」
間延びした返事に涙の音が混ざっていた。けれどそれに気付かなかったふりをして、俺は続けた。
「側に居ろ……例え破壊欲求にお前が支配されようが、俺が」
「ユウ」
抱き締められたままの格好で切羽詰まったみたいに言う俺を、あいつは止めた。愛しいものを壊さないようにそっと触れるような柔い手付きで、あいつの手がまた少し伸びた俺の髪をすく。
「それじゃあ意味無いんさ。ユウはノアになった俺には勝てない………ユウが俺のこと、ちゃんと想ってくれてるんだって知ってるから、分かる」
感情を全て欲求に持ってかれた俺には、ユウへの想いなんて多分残ってないだろうから。俺はユウを殺せる、だけどユウに俺は殺せないんさ。そう言って、あいつは俺の拘束を解いた。
「ばいばい、ユウ」
背中を向けたあいつは、だんだん背景に溶け込んで、見えなくなっていく。
「ラビッ」
伸ばした手も声も届かなくて、ただ最後に小さく、“大好きさ”って、あいつの声が聞こえた。
「くそ……っ、自分だけ言いたいこと言って、俺はまだ何も…っ」
聞き間違いとか空耳とか、そんなんじゃないって分かってるから、だから余計に悔しくて、俺はすぐ横の壁を思いきり殴った。
「―――俺も、お前が好きだ……」
この世界に生きている限り、またどこかで会えるかもしれない、気が遠くなるような可能性を、信じてみても良いだろうか。俺の問いに応えるように、空はあいつの色に染まっていた。