初めは見慣れたその顔が帰路にあったことに、僅かな衝撃を抱いたのだった。
それは今考えれば嬉しさというようなものだったのだろう。
「っ・・!」
小さく漏れた声は数m先の<名字>に届くことはなかった。
<名字>も家へ帰る途中なのだろう制服で鞄を持ったまま、見知らぬ男――恐らくうちの生徒ではない――と楽しげに雑談を交わしていた。
しかしそれが只ならぬ関係であることに気付いたのは男が自然に<名字>の頬に口付けた行為を当たり前に<名字>が受け入れたのを目にしてだった。
唇が離れた後でさえ<名字>は笑みを浮かべたまま男に何かを話している。
気持ちが移ったことを浮気というのなら、それは浮気ではないのだろう。
俺には心当たりがあった。
晩春に<名字>と出掛けた際、声を掛けて来た男の言葉が今になって蘇ってくる。
【へぇ今度はこいつって訳?確かに俺とはタイプが違ぇわな】
二人は気軽な、それでも友達以上の関係を持っていたのだろう。
あの時は曖昧であったものが今のこの光景によって明確となる。
そして今頬に口付けられた<名字>の反応は、俺が数週間前に同じ事をしたそれと全く違うものだった。
【彼はそういうんじゃないよ】
男に告げた<名字>の言葉を信じるなら<名字>にとって俺はあの時の男とは、また今目の前にいる男とは違う存在であるのだろうか。
だからといって俺のこの激情が鎮まる筈も無かったのだが。
「あ、手塚?」
どの位ここに立ち尽くしていたかは分からない。
しかし<名字>はふと視線を俺に向けた。
期待したのはその眸が驚きに見開かれるものであったのに。
<名字>は嬉しそうに表情を明るくして、俺に歩み寄ろうとさえしたのだ。
「今帰り?早いね、部活もう終わっ――」
白い手が俺に伸ばされた。
何気なく俺の肩に触れようとしたそれは透き通るほど真っ白だ。
ただそれを、何故か俺は汚いと思った。
今更<名字>の眸が見開かれる。
弾かれた手を宙に浮かせたまま<名字>は酷く傷付いた顔をした。
そうさせたのは俺なのだろう、しかし俺はそれが当然であると感じていた。
「俺に触るな」
<名字>の顔が泣きそうに歪んだ。
俺はこの顔を昔一度だけ見たことがあった気がした。
だが今、俺にその時のような罪悪感はない。
<名字>の横を通り過ぎて歩き出したのはそう告げてから幾分か経った頃であった。
機械的に家へと足を進めながら、頭の中は理屈では説明の付かない感情ばかりが渦巻く。
あぁ解った。今解った。
俺は<名字>が好きなんだ、そうなんだろう?
だから許せなかったんだ。
俺は俺に謝る<名字>が見たかったんだ。
あの男達と俺は違うと、必死な顔をして俺との関係を壊さぬことを請う<名字>が。
<名字>が屋上に初めて現れたあの日から、俺は<名字>が俺を好きなのだと思っていた。
俺の言動に一喜一憂する<名字>を見て優越感を抱いたのは他でもない、俺が<名字>を好きだからだ。
「手塚っ!」
足音が近付いてくることも気が付かなかった。
突然名を呼ばれ、振り返ると予想通りの人物がそこにいる。
息を切らして頬を上気させて、鞄を何処に置いて来たのか手ぶらのままだ。
「僕には、そのっ、確かにさっきみたいな遊びで付き合ってる奴が、いるけど・・!」
視線を俯かせつつも焦った様子で懸命に言葉を紡ぐ<名字>を眺める。
ここで俺が別れようと言ったら<名字>は泣くだろうか。
泣いて諦めるだろうか、それとも別れたくないと俺に縋るだろうか。
「手塚は違って・・初めてちゃんと好きになって、それで・・っ」
泣けば良いのに。
泣いて俺に縋れば良いのに。
そうしたら俺はあたかも仕方がないといった風にため息を吐いて、<名字>を許してやれるのに。
「悪いことだなんて思わなかったんだ・・ごめん、本当、ごめん・・っ」
「それで?」
俺の言葉に<名字>は顔を上げる。
俺が<名字>を責めているとでも思ったのだろうか、そんなつもりはない。
<名字>の目の縁が赤い。
その眸がゆっくりと滲んでいく。
――さぁ泣け。
泣いて、俺に好きだと言ってくれ。
「っ・・別れるなんて、言わないで・・・!」
堰を切ったように溢れた涙は<名字>の頬を瞬く間に濡らしていった。
俺の言葉を待ちながら<名字>は俯いてぼろぼろと涙を零す。
その頬に手を伸ばすとびくりと小さく<名字>は震えた。
躊躇わずに未だ涙の溢れる目元を親指で拭う。
「こんな往来で泣くな、みっともない」
告げる俺に<名字>はしゃくり上げる。
ふと視界の端で<名字>の腕が少し上がり、一瞬止まって元あった位置より後ろへ戻っていくのが見えた。
そういえばさっき<名字>に触るなと言ったことを思い出す。
「誰も別れようなどと言っていない。
 少しカッとなっただけだ・・悪かった」
告げると<名字>は泣きながら首を横に振った。
不明瞭な言葉で自分が悪いのだと繰り返す<名字>はこの先、きっと二度と今のようなことはしないに違いない。
悪かった?
良く言ったものだ。
思ってもいないくせに。
「好き・・手塚、好きだよ・・」
泣き止まない<名字>をそっと抱き締め、俺もだとその耳に囁く。
求めたその名は執着だろう。
愛情と呼ぶには傲慢過ぎる感情を確かに俺は抱いていた。



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