「おーいしっ」 声を掛けられてびくりと肩を竦ませる。 振り返るとダブルスのペアである英二が頬を膨らませていた。 「もう、さっきから呼んでるのに何考えてたんだよっ」 怒る真似をする英二は何故かジャージを着ている。 しかしその服が背景に映る緑のフェンスに似つかわしいものであることに気付き、漸く俺は今が部活の最中であることを思い出した。 「あ、悪い・・」 今の今まで頭を渦巻いていたことは紛れもなく先日の資料室での出来事である。 髪を染めたり煙草を吸っているだけでその人の人間性まで疑うようなことはしないが、正直<名字>の言葉通りにあの写真で俺を脅すことがないとは信じ切れなかった。 「どうした?何かあった?」 俺の様子が普段とは違うと思ったのか英二が心配そうに眉を寄せて俺の顔を覗き込んでくる。 「いや。大丈夫だ、何でもないよ」 悪いともう一度謝って笑みを浮かべると、些か納得しないような顔をしつつも英二は小さく息を吐き出す。 「ま、大石がそう言うならいいけどさ」 言いながら自分のポジションに戻っていく英二を見送って自分自身にため息を吐く。 情けない、部活にまで引き摺るとは。 しかしやはり俺の不注意の所為で次の大会に出場することなく三年の部活が終わってしまうなど、決して許されないことであった。 やるしかないと、俺は手にしているラケットの柄を強く握り締めた。 * * * 今日も<名字>は朝から教室に現れなかった。 しかし昨日はなかった筈の鞄が埋まらない机の横に掛かっていることから学校に来てはいるのだろう。 早々に昼を済ませた俺は北塔の三階へと足を進めた。 <名字>がいつも資料室にいるのかどうかは知らないが普段鍵が掛かっている筈のそこに入れることから、何かしらの方法を持っているのだろう。 だとしたらそこにいる可能性は高い。 一歩足を踏み出すごとに心臓が低く音を立てた。 資料室の扉は閉まっている。 俺はその取っ手に指を掛けた。 ガラ・・ 「あれ、大石君じゃん」 数日前に耳にした声が俺の名を呼ぶ。 視線の先にいた<名字>の口に、今日は何も咥えられていなかった。 「また頼み事でもされた訳?」 小さく欠伸をして、<名字>は問い掛けておきながら興味がないとばかりに窓際へ移動する。 ――やれる。 その後姿を見つめて俺は胸中でそう唱える。 <名字>の身長は俺とそう変わらない。 腰も細いしYシャツの袖から覗く白い腕は鍛えているものとはまるで違い華奢なものであった。 俺だってただ毎日ラケットを振っている訳じゃない。 ゆっくりと<名字>に近付き、その細い手首を狙った。 「っ!?」 <名字>が驚きに小さく声を漏らす。 状況を理解される前に俺は<名字>の腕をその背に回して両手首をがっちりと掴んだ。 「何のつもりだよ」 告げる<名字>にしかし焦りや怒りは見られず大した抵抗も見せない。 俺は片手で<名字>の手首を固定したまま反対の手でハンカチを取り出し、その腕をきつく縛った。 「聞いてる?こんなことしてどーすんのー?」 面倒そうに問う<名字>の右ポケットに小さな膨らみを見つけ手を入れる。 目的のものを見つけた俺は縛った<名字>をそのままに、黒一色のシンプルなそれを開いた。 「プライバシーの侵害だよ大石君」 茶化す<名字>の言葉を無視して俺はメニューのボタンを押した。 しかし画面にオートロックの文字とパスワードの入力画面が表示される。 「番号は?」 声を低くして尋ねても<名字>には効果がないようだった。 「教えないって言ったら?俺のこと殴ってでも吐かせる?」 むしろ<名字>は楽しそうに笑って、手を縛られたまま振り返って俺と対峙する。 「大石君にはそんなこと出来ないでしょ。ケンカなんかしたことありませんって顔してるもんね」 「っ・・!」 カッと頭に血が昇ったのは事実だった。 しかしここで<名字>を殴ったとしても、きっと番号を得ることはできないだろう。 「煙草のことは誰にも言わない。しかしお前があの写真を使って俺を脅す可能性も否定できない。だから番号を教えてくれ」 真剣な俺から躊躇いなく目を逸らして、<名字>はついに声を立てて笑った。 「俺の言うことは信じないくせに自分の言ってることは信じろって?そりゃ都合が良過ぎるよ大石君」 背中に回されたままだった<名字>の右手が俺の胸元に伸びた。 てっきり拘束されたままだと思っていた俺はそれに反応することが出来ず、あっという間に胸倉を掴まれてしまう。 「甘いねぇアンタ。番号なんて聞かずに携帯へし折っちまえば良かったんだよ」 そして<名字>はいつの間に奪い取ったのか、俺の眼前に携帯をちらつかせる。 俺の両手はもちろん自由だったが、胸倉を掴む<名字>の手を振り払って携帯を奪い返すことが出来るとは到底思えなかった。 俺を至近距離で見つめたまま不敵な笑みを浮かべる<名字>に、俺はもう言葉を紡ぐことさえ出来ない。 「はい、あげる」 しかし<名字>が取った行動に俺は馬鹿みたいに目を丸くして声を漏らした。 「は・・?」 俺の右手を取った<名字>はそのまま俺の手に携帯を乗せる。 「折るなり捨てるなり好きにしなよ」 そしてもう話は終わったとばかりに<名字>は資料室を出て行こうとする。 呆然としたまま<名字>の姿を視線で追う。 「ま、待て・・っ、何でこんな――」 振り返った<名字>はやはり可笑しそうに笑った。 「さぁ?何でだろうね」 そのまま資料室を出て行く<名字>に俺はそれ以上声を掛けることが出来ず、右手に残された携帯に視線を落とす。 ・・・都合が良過ぎる、か。 未成年の喫煙が良い事だとは思えないし、それに対して注意をすることがお節介だとも思わない。 しかし確かに俺は<名字>のことを欠片も信用していなかったのだと思うと、何故だか苦い気持ちになった。 「・・・」 掌の携帯を握り締める。 資料室を飛び出したと同時に鳴ったチャイムには聞こえないふりをした。 |