そう遠くない位置にある事やそれでありながら一度も行ったことが無いという事、そして何よりもたまたまそこの割引券を俺が持っていたことが起因して俺達は地元から三駅先の水族館へ行くことになった。
時間に余裕を持って家を出たつもりだったが駅前には既に<名字>の姿があった。
「すまない、待たせてしまったな」
声を掛けると<名字>は少し笑って、そんなことないと答えた。
<名字>の私服を見るのは初めてではないのに、初めてそれを見たかのようなおかしな感覚を抱く。
「じゃあ行こっか?」
<名字>のその声にふっと我に返り、あぁと頷いてから改札へ向かう。
何故だか落ち着かない自分に不可思議な思いを抱きながら、向かう電車の途中で俺は一度も<名字>と目を合わせることが出来なかった。


* * *


言ってみれば水族館というのはメジャーなデートスポットなのだろう。
もちろん家族連れも沢山いたが、恋人同士で訪れているものがそれと同じ位いたことに少しばかり驚く。
その恋人同士の括りの中に俺と<名字>も入るのだろうか。
ふとそんな事を思って、隣で熱心に大きな水槽を眺めている<名字>に視線を遣る。
「綺麗だねー」
水槽に顔を近づける様子は綺麗というよりか可愛らしいといったものだったが、そうだなと相槌を打った俺の意が別のところにあったとは<名字>は気付かなかったに違いない。
海の深浅や魚の種類で小分けされているこの区画には今、俺と<名字>以外に誰もいなかった。
奇行に出た理由はきっと<名字>が魚ばかり見ていたからだろう。
それは水族館に来たのだから当たり前のことである。
しかし俺と<名字>があの恋人同士という部類に入るのなら付加価値でしかないそれに<名字>が気を引かれるのが俺は何となく、ただ何となく気に入らなかったのだ。
そっと間を詰めても気付く気配のない<名字>の頬に唇を触れさせた瞬間、<名字>の体に力が入ったのが分かる。
音を立てることも無くそれが離れて数秒、<名字>はやっと水槽から視線を引き剥がして俺を見上げた。
「な・・なん、なん・・っ!?」
それこそ魚のように口をパクパクさせながら要領を得ないことを言う<名字>は今や耳まで真っ赤である。
「嫌だったか?なら悪かった」
恐らくそうでないことは解っていたが、こんな往来でと言われれば実にその通りである。
思い切り過ぎただろうかと侘びると<名字>は一度目を瞬いてから視線を外す。
「そ、そんな訳、ないけど・・!」
その火照った横顔を見てふっと笑みが漏れる。
素知らぬ顔を努めて水槽の中へ目を向ける<名字>はしかし何も見えてはいないのだろう。
それに気を良くして<名字>の後ろからその水槽を覗き込む。
あぁ確かに綺麗だと色とりどりの魚が泳いでいるのを眺めながら、これを見れぬ<名字>を不憫だと何とも勝手な事を思い、微笑った。


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