次の授業に使う資料を持ってきてくれないかと、運悪くも先生に捕まり告げられたそれに大人しく従った俺は北塔の三階にある資料室へ足を進めた。
この階は選択科目の特別教室が多く、一日に何度か人気がほとんど無くなることがある。
どうやら三時間目にここの階を使うクラスはないらしく、今はしんと放課後であるかのように静まっていた。
資料室の扉に鍵を差し込み、回した所で違和感を抱く。
カチャリと音がする筈であるのに聞こえないということは鍵が開いているのだろうか。
鍵を抜いて扉を開いてみると案の定扉はガラガラと音を立てて開いた。
「あー・・見付かっちゃった」
資料室に一歩足を踏み入れた所で俺の体は一時停止する。
まず真っ紅に染めた髪が目に飛び込んできた。
その後に大して焦った様子もなく告げたこの青年の口に、中学生が咥えるにはとても不釣合いな白い円筒を見つけて俺は息を詰める。
そして俺の頭には一人の名前が浮かんだ。
「<名字>・・!」
「俺の名前知ってたんだ、意外」
ふっと口元を緩めて微笑ったそこには未だ煙を立ち上らせる煙草が咥えられていた。
<名字><名前>。
うちの学校で不良といったらまず思い付くのがその名である。
外見からして髪が紅く服装がだらしなく片耳にピアスを開けている。
授業には滅多に顔を出さず、行事にも参加しない。
現に俺は<名字>と同じクラスになって数ヶ月経つが、<名字>が授業に出ているのを目にした回数は片手で事足りる。
一番最近聞いた噂はたった一人で他校の不良とケンカをして十数人を病院送りにしたというものだった。
「こんな所で何てもの吸ってるんだ!」
それにもかかわらず怯むことなくそう告げたのは俺の世話焼きな性格の所為であるのだろう。
棚の上に腰掛ける<名字>に進み寄って煙草を取り上げようとすると、<名字>は俺の手を避けてぐいと俺の顎に手を添えて来た。
殴られる、と。
瞬間的に思いぎゅっと目を瞑る。
しかし感じたのは痛みでなく口内に何かを捻じ込まれる感覚だった。
目を開けると自分の目前で煙が上がっている。
ピロロと何とも間抜けな電子音が鳴ったと思うと俺の顎から<名字>の手が離れた。
「優等生の大石君の喫煙。激写だな」
<名字>の言葉に漸く俺は煙草を咥えさせられたのだと気付く。
息を吸い込む前に慌てて煙草を口から外し、<名字>を睨み付けた。
「何やって――」
「名門テニス部の副部長が喫煙かぁ。これは部活停止になっちゃうのかな?」
携帯電話をチラつかせて口の端を吊り上げた<名字>の意図を俺は理解した。
喫煙現場を目撃されたことの口封じである。
ぞくりと背筋が震えたのは<名字>の言っていることが実際になりかねない事であったからだ。
幾ら無理矢理咥えさせられたと言ってもそんな写真をばら撒かれてはテニス部に支障が出るのは必須だ。
都大会も近いというのに。
「っ、お前・・!」
突き付けられた事実に俺はそんな声を上げることしか出来なかった。
<名字>は依然として笑みを浮かべたままパタンと携帯を閉じる。
「別に脅して何させようって気はないよ。
 ただアンタが今見たことを無かったことにすればいいだけだ」
告げてひょいと棚から降りた<名字>はぐいと俺との距離を詰める。
「簡単だろ?」
至近距離でゆっくりと告げられたそれはまるで悪魔の囁きのようだった。
俺が何も言えずにいるといつの間に俺の手から奪ったのか、<名字>は煙草をまた咥えて大きな本棚に背を預ける。
「ほら、用があってここに来たんだろ。さっさと済ませて教室行けよ」
言い終わると<名字>はもう俺に何の興味もないようで、ぼんやりと何処かを眺めながら煙草を蒸かしている。
俺はきゅっと唇を噛み締め、仕方なしに頼まれた資料を手に取った。
しかし<名字>に再び近寄りその顔を見つめる。
「・・?何だよ」
怪訝な表情をする<名字>の唇から俺は煙草を奪い取った。
その黒い目が丸く見開かれる。
出来ることと言えばこの位しか無かったのだろう、自分でも解っていた。
「中学生が煙草を吸って良い訳ないだろ」
<名字>の反応を見もせずに資料室の扉を潜った俺に、後ろから<名字>の声が掛かることは無かった。
手にした吸い掛けの煙草はトイレにでも流してしまおうと燻った熱を宿すそれを指先で潰す。
煙草の臭いに眩暈さえ起きそうだ。
鼻に付く、苦々しい後に残る臭い。
まるで<名字>のようだった。



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