シャクッと林檎を齧る。
ここ毎日決まった時間に甘酸っぱいこの味が口の中に広がる。
あと一時間もすれば日が暮れるだろうか、橙色になり始めた空は今日も良く晴れていた。
「さっき看護婦さんに精市君と仲が良いのねって言われて、
 初めて幸村が精市っていう名前だって知ったよ」
突然そんなことを言って来た彼に林檎を咀嚼してた口が止まる。
名前なんて部屋の入り口に書いてあるじゃないか。
ベッドヘッドにあるプレートにだって。
「そういえば<名字>は下の名前、何て言うんだい?」
知っていた。
彼が<名前>という名であることくらい、初めて彼に会った日から知っていた。
ただ何となく僕だけが知っていたことが面白くなくてそんな下らない質問をしたのだ。
「<名前>。女の子みたいであんま好きじゃない」
あぁそれは初めて聞くよ。
だったら聞いて良かったのかもしれない。
胸中で苦笑したことを悟られたくなくて、僕はまた林檎を齧った。
「じゃあ名前で呼ばない方が良いのかな」
「んー・・どっちでもいいよ」
興味無さそうに告げる彼を盗み見る。
僕は名前一つでこんなに重苦しい気持ちになるのに、
彼は名前なんてどうでもいいみたいだ。
「そう」
しかし彼を<名前>と呼んだところで、どうせそれは僕だけの言葉ではないのだ。
彼の親も友達も彼を<名前>と呼ぶのだろう。
彼の弟は彼を何と呼んでいたのだろうか。
兄ちゃん、兄さん、<名前>兄、兄貴。
色々と浮かんだがそれが彼の弟だけが呼んでいたものであることには変わりない。
・・・既にいない相手に嫉妬するとは馬鹿げている。
ただ彼がいつまでも僕に弟の影を探しているように見えるものだから(本当は僕は林檎よりも梨の方が好きだ)つい頭の中はそんなことを考え始めてしまうのだ。
そっと彼に顔を近付けてみた。
彼が僕に気付いて目を合わせるのと同時に僕は目を瞑る。
彼の唇に触れた。
初めてのキスだった。
衝動的なそれは嫉妬によるものだろう。
僕は弟と違うのだと彼に知らしめたかった。
ふと唇に濡れた熱が触れる。
それが何であるかを理解した直後、それは僕の口内へと侵入した。
「っ・・!」
慌てて動いた為にぎしりとベッドが音を立てた。
キスをした僕の方から口を離すとは思わなかった。
頬が熱い。
きっと僕は今、赤い顔をしているのだ。
彼はいつもの笑みを少し深くして僕を見つめる。
「悪戯はいけないよ」
何も言えなかった。
自分から仕掛けておいて怖気づくとは何とも滑稽である。
ただ色々と経験の差を思い知らされた気がして
同い年であるのに、とまたしても僕は悔しさを味わう羽目になった。
「そうだね。ごめん」
気まずそうに微笑んだのは彼の拒絶を恐れたのかもしれない。
僕が本気だったのだと彼に伝えて、
彼が受け入れてくれる可能性は果たしてどれほどあるのだろう。
手にしていたフォークで皿の中の林檎を突き刺す。
サクッと空しい音が病室に響いた。



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