別に俺は<名字>に対して何の恋愛感情も抱いてはいなかった。 弟やペットのようなそんな馬鹿で可愛らしい存在で、 だから今回のことも度が過ぎただけというものだろう。 まぁそれは、俺にしてみればの話であるのかもしれないが。 毎日のようにテニス部の放課後の部活が終わるのを待っている<名字>は 何も最愛の真田を待っている訳ではない。 小一からの幼馴染である幸村を待っているのである。 「お、今日もケナゲじゃのう」 珍しく一番初めに部室を出ると<名字>が部室の扉から少し離れた所で鞄を持って立っている。 俺が声を掛けると<名字>はその整った顔をぱっと明るくさせて、俺に歩み寄って来た。 「久々だー。元気してた?」 もしこいつに尻尾が付いていたら惜しげもなく振っているだろうと思えるほどに <名字>は懐っこく俺にじゃれ付いてくる。 「んーお前さんがいなくて淋しかったけぇのう」 その頭をくしゃくしゃと撫でると<名字>はふにゃりと頬を緩ませる。 まるで犬そのものだと内心苦笑しながら、 それでも俺はこの男が真田の前では別人のように大人しくなることを知っていた。 「<名字>こんなとこに葉っぱ付けて何しとったんじゃ?」 ふとさらさらな黒い髪の隙間に初々しい緑の葉っぱが付いていることに気付いて そっと自分より些か低いその頭に手を伸ばした。 指先にカサリと葉が触れる。 その瞬間ガチャリと部室の扉が開く音が聞こえた。 <名字>を待たせていることもあっていつも幸村は比較的早く部室を出て行く。 鍵当番である真田は一番最後で、それはもちろん<名字>も知っていることであった。 ただ俺の今日の知識と<名字>の以前からのそれは明らかに別物であったのだ。 今日という日は。 「んっ?」 目を開いたまま<名字>は俺の目を凝視する。 至近距離でぼやけた黒い眸が驚いたように見開かれた。 唇が離れるのと同時に<名字>は口をぽかんと開ける。 しかしその表情が突然、阿呆のような面から絶望を突きつけられたものに変わった。 あぁ振り返れないのが残念だ。 俺の後ろ、<名字>の視線の先には 今日用事があるために幸村に鍵当番を頼んだ真田がいるというのに。 「じゃ、またな」 ぽんぽんとその頭を叩いて、俺は一度も振り返らずにその場から離れる。 <名字>は俺の方を向くことも俺の言葉に反応することもなかった。 ただ一点を馬鹿みたいに見つめている。 あの仏頂面の鉄化面はこの光景を見てどんな顔をしただろうか。 少しは驚いてみたり、嫉妬に狂った表情を浮かべて見せただろうか。 そうであるならいい。 あの妙に癪に触る無表情が崩れればいい。 こう聞けば<名字>は俺の八つ当たりの為に使われたようであるが、そうではないのだ。 真田に対する感情は何も初めからこんなものではなかった。 ――お前に出会ってからじゃ、<名字>。 あぁこれを嫉妬と言わなくて何と言うのだろう。 大事な大事な愛玩動物を俺は未だに奴に渡す気はない。 今思えば、ただそれだけの衝動だったのだった。 |