断ろうと思えばいくらでも断れた。
例えあれが彼の一大決心だったとしても、伊達に女好きで人生を送っている訳でない私には大して傷付けず断れる自信があった。
だが、何故だろう。
彼のあの顔を見たとき何も言葉が出てこなかった。
・・・私も老いたかも知れんな。
思い仰いだのは数日前に見た真っ白な天井だった。
「何か飲みますか?」
白い視界にふっと彼が入り込んでくる。
「いや。私は居候なのだから、君が気を遣う必要などないよ」
微笑うと彼はそうですかと何処か戸惑いがちに答えた。
狭い家、小さなリビング。
年若い青年と白髪の老人を例えば誰かに見られたとしたら。
それこそ孫と祖父に見えるのだろう、恋人同士など笑ってしまう。
しかし私は幸せだった。
心温かな時間で、余計なことは言わずに余計なことはせずに。
ただゆっくりと話をするだけ。
数ヶ月のその出来事はもしかしたら、私の人生で一番の穏やかな時間だったのかもしれない。
彼の家に居座るようになってどのくらい経っただろうか、賭博の誘惑と戦いながらも彼を巻き込むまいと店の前を通り過ぎた買い出しの帰り。
治安の悪い30番グローブ辺りでいかにも悪党らしい雄叫びがふと耳を掠めた。
余計なことに顔を出す気はなかったが、ここから家は近い。
覗くだけのつもりで声のする方へ向かう。
大きな木を越えた先で2mはゆうに越えるであろう巨体三つに囲まれていたのは、とても小さく見えた彼だった。
あぁ来て良かったと退治に掛かろうとすると、一つの巨体がぐらりと揺れた。
どぉん・・っと地響きが鳴る。
倒れた一つの巨体を見つめていた残りの二人は、恐れを含んだ眸で彼を睨み付けた。
「な、何なんだてめぇ!」
彼の顔よりも大きな拳を繰り出した一人のそれは、彼の小さな掌によっていとも簡単に止められてしまった。
もう一人の巨体が右の拳を続け様に繰り出す。
彼の左側に。
その位置ならギリギリ死角にはならない筈だ。
しかし音もなく近づいていくそれに彼は何の反応も示さない。
ふと思い立った私は残る巨体二つに視線を遣った。
びくんと一度だけ痙攣を起こした二人はそのまま白目をむいて倒れる。
大きく地面が揺れるのと同時に、彼はゆっくりと私を振り返った。
「レイリーさん・・・」
彼が少し目を丸くしたのは私がここにいることにだろうか。
それとも、私のようなただのジジイが二人の巨漢を倒せるだけの覇気を持っていることにだろうか。
彼は歩み寄る私に怯えもせず、ありがとうございますと小さく答えた。
「君は左目が不自由なのかい?」
買出しの袋を抱えながら尋ねる私に彼は微笑む。
「えぇ」
笑ったのは私に妙な気遣いをさせないためであるのだろうか、しかし私が何故そう尋ねたのかについて彼は聞き返さずに口を噤む。
私が先ほど思い出したのは何週間か前の家での光景であった。
夕食の後片付けをしていた時に私は彼に小皿を手渡そうとした。
少しだけ振り返った彼は、私から小皿を受け取ったかのように見えた。
けれど彼の手はそのまま小皿を通り過ぎ、私の手にぶつかった。
ぱりん、と静かな部屋に小皿の割れる音が響く。
【す、すみません・・!】
慌てたようにしゃがむ彼を制止し、腰を屈める。
【あぁ、良い良い。私が拾おう】
陶器の破片を拾う私の頭上で、すみませんと消え入りそうな声が聞こえたのを憶えている。
確かあの時も私は彼の左側にいた筈だ。
ただ皿を取り損ねただけのことと思っていたが、そういえば彼のあの時の様子は何処か変だった。
「行きましょうか」
話を切り上げた彼はきっとその原因に触れられたくないのだろう。
私の覇気についても、彼は何も聞かない。
沈黙はまるで私たちの距離を表しているかのようだった。
それからの帰り道は他愛ない話をした。
今日は牛乳が安かった、明日の天気は優れないらしい。
そんな話をしている内にあっという間に家に着いてしまう。
「入らないんですか?」
扉を開いた彼の少し後ろで立ち止まったままの私を、彼が不思議そうに振り返る。
「いや」
いつからかこの家に帰ることが当たり前のような気がしている。
果たしてそれは、いつまで続くのだろうか。
「ただいま」
誰もいない家にそう告げた私に、後ろから彼の声が掛かる。
「お帰りなさい」
可笑しそうに告げる彼の笑い声。
彼の過去も私の秘密もこの笑顔ひとつに負けてしまう。
帰る家があって笑い合える相手がいて、さて私はそれ以上に一体何を望んでいるというのだろう。
「夕飯にしようか」
自問せずとも出ているその答えには気付かないふりをした。



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