翌朝の<名前>の目には泣いた気配など全くなかった。
昨夜必死で目を冷やしたのが効いたのだろう。
落ち着いたあと大丈夫だと不格好に笑って見せた<名前>に、何があったのかの詳細を聞くことは叶わなかった。
不意に教室に向かう途中で目にしたものに俺までもが眉を寄せるのは可笑しなことであるのだろうか。
しかしきっとこの場にいるのが俺一人であるならば、そんな事もなかったのだろう。
「おー文次郎」
俺を見つけて声を掛けて来た小平太に胸中で毒づいた。
俺の後ろには<名前>がいて、そして小平太の隣には長次がいるのに。
「何処行くんだ?」
「何処って次は授業だ、教室に決まってる」
横目で見た<名前>の表情はむしろ不自然なほどにいつも通りであった。
いつの間にこいつは、こんなにも嘘が上手くなったのか。
「私たちは実習でグラウンド集合だからな!」
だから教室だとは限らないと言いたいのか無駄に笑みを見せる小平太にため息が出る。
「お前、口の端にキュウリ付いてるぞ」
「は?」
もう六年生にもなるのにいつまでもだらしない奴だ。
唇の右を擦る小平太に逆だと告げようとした。
「ここだ」
しかし俺の声が発せられるより早く低い声が耳に入った。
ごつい指を伸ばして小平太の口の端に付いたキュウリを取ってやった無愛想な男のその所作に、ドクリと鼓動が跳ねた。
緊張だろうか、俺の意識は確実に俺の後ろに行っていた。
「おうサンキュー」
当たり前のような顔をした二人を見れば、これがいつも繰り返されているに違いないと俺でさえ予想出来るのだ。
<名前>には一体何がどう見えている?
「っ・・」
不意に手首に何かが触れた。
掴むのを躊躇うかのようなそれは恐らく<名前>の指先だ。
躊躇う?
いや――震えているんだ。
「用がないならもう行くぞ、授業に遅れる」
言いながらきつく<名前>の手を掴む。
小平太の返事も聞かずに俺は<名前>の手を引いて足早に歩き出した。
背後で何か小平太が言っているのが聞こえたが足を止める気はなかった。
「・・・ごめん」
ぽつりと<名前>が呟く。
「謝るな、俺がしたかっただけだ」
そもそも声を掛けられたのは俺の方なのだ、むしろ<名前>は巻き込まれたとでも言うべきだろう。
「泣くなよ? 泣くのは部屋にいる時だけにしろ」
振り返れない俺に<名前>は大丈夫、とまた掠れた声で答えた。
ヒーロー気取りかと自分で自分が笑えた。
弱々しく俺の手を握り返す<名前>の掌を感じて奥歯を噛み締める。
初めて手を握った喜びが湧くほど単純でいられたなら、どれだけ楽だっただろうに。


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