AMNESIA


□名前変換


私の知り合いというより彼はイッキュウの知り合いだった。
史学の院生である彼がどんな経緯で経済学のイッキュウと顔馴染みになったのかは知らないが、数学科の――最早そこは私の、といっても過言ではない――研究室にイッキュウを訪ねてきた彼と私はよく言葉を交わすようになった。
コンコン
不意に研究室の扉が叩かれた。
返事をしようと口を開いたところでガチャリと扉が開く。
「イッキュウ来てる?」
肩口まである焦げ茶の髪を緩やかに横縛りにした彼は中性的な魅力を放っていた。
顔が整っているだけではない、何処からか滲み出る得も言えぬ色香にそれこそ男も女も彼のファンは多いようであった。
「名前、返事を聞く前に扉を開けるのではノックしてないも同然だ」
そんな彼に淡々と恨み言ではない事実を述べると、彼は少しも悪いと思っていないようなむしろ眩しいばかりの笑顔でごめんと告げた。
「イッキュウなら今日は姿を見ていないが」
デスクの上のパソコンに視線を戻しながら答えると、その視界の端で彼がソファに横たわるのが見えた。
「何をしているんだ」
そのまま大きな眸を閉じた彼にまさかと思いつつ問いかけると彼は目を開けることもなく答える。
「今日はもうやることないからイッキュウが来るまでここで寝かせてよ。
 来ないならそれでもいいし」
夜更かししたから眠くて、と続ける彼にため息が漏れた。
イッキュウは女性に対してのみいい加減で節操がないが、彼は色々な面においていい加減で適当である。
食えない男とでも言うのか、恐らく女性たちは彼のこういう部分にも惹かれるのであろう。
「好きにすればいい」
私には皆目わからないことだが。
寝息も立てずにソファで眠りにつく彼はまるで人形のようで、動かなければとても好みの容姿をしていると、つまらないことを思った。

背を向けた窓からオレンジの光が差し込んですっかり作業に夢中になってしまっていたことに気が付いた。
何時間ほど経ったのだろうか、部屋の中の光景は日が暮れ始め色彩が変化したこと以外には彼がこの部屋に来た時と何ら変わりはなかった。
寝不足というのは本当であったらしい。
あれだけ寝たというのに、眠っているその傍らに私が立っても身じろぎひとつしない。
「名前」
ひとつ、名を呼ぶ。
目の前のこいつは何を安心しきって寝ているのだろう。
長い睫毛が陶器のように滑らかな肌に影を作っている。
美しいと言う以外に表現の仕様はなかった。
「犯すぞ」
びくりとその肩が動いた。
と同時にぱちりとその瞼が開く。
「起きていたんじゃないか。もう暗い、帰るぞ」
変わらぬ口調で告げ、鞄を取りに彼の傍から離れる。
「冗談にもほどがあるよ・・!」
顔を真っ赤にして悔しそうに言う彼の反応を、果たして私はどう受け取ればいいのだろう。
「寝たふりをしていた君が悪い。それに私は君という人間には人前で眠ることを警戒しなければならない場面もあるのではないかと警告した意味もあったのだよ」
必要なものを鞄につめながら彼を見遣ると彼はまだ不満げな顔をしていたが、ひとつ欠伸をするとすぐにその表情はいつものものに戻った。
本当に、冗談にもほどがある。
警戒しなければならない場面?それこそ、今この時である。
友達だと思っていた相手がその実同じ男相手に恋心を抱いて友達という関係を利用しているなど、信用しきったような態度で私の隣を歩く彼は夢にも思わないに違いない。
「あ、暇なら夕飯食べていかない?」
研究室の扉を閉める私を振り返り、彼は無邪気に笑う。
「そうだな、確かに腹が減った」
何度も憎らしいと思った笑顔は今日も一片の疑う余地もなく美しく、私はこうしてまた、何度でも彼に恋をするのだ。




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