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□名前変換 腕時計はもう夜の七時を指していた。 いつもならばこの時間でもセプター4本部内のあちこちで見掛ける青色の軍服が、今日はほとんどその姿を見ない。 静まり返った廊下に私の靴音だけが響いていた。 「あれ、室長じゃないですか」 執務室の扉を開くと黒い眸が私を振り返った。 「室長室の暖房が壊れてしまってね。まさかまだ執務室に残っている者がいるとは思いませんでしたが」 広い執務室に数多くある椅子も使われているのは一つだけで、歩み寄り彼の斜め前の席に腰を下ろした。 机の上には彼の書類が広げられており私は手にしていた書類を同じように広げ始める。 「まぁどうせ予定もないんで」 人懐こい笑みを浮かべ告げる彼の言葉が、本当にその通りであればいいのに。 「私も同じです」 つられるように作った笑みは彼のものとは似ても似つかなかった。 彼の姿をこの本部以外で見掛けたことはない。 勤務中であっても彼と言葉を交わすことなどはほとんどなかった。 それでも彼は姿を見る度に惜しいくらいの笑顔を浮かべ、私に挨拶をしてくるのだ。 「まだ若いのにクリスマスが仕事なんてもったいないですよ」 視線を書類に落としながら言うと視界の端で彼がボールペンを回しているのが映る。 「そういう室長こそまだまだ若いじゃないですか。彼女が室長の帰りを待ってたり、なんてないんですか?」 頬杖をついて問う彼のその表情に他意などまるで見当たらず、やはり私は彼の目を見つめることが出来なかった。 「そんな人がいたら、今ここにはいませんよ」 そして彼は私のその台詞に疑いを抱くこともせず、躊躇いもなく私を見上げるのだ。 いつまでも、いつもと同じ、無邪気な笑みのままで。 「え、室長」 不意に驚いたように頬杖をついたままの彼が私の書類に目を落とした。 「それ期限今週末までのやつですよね?何もわざわざ今日やらなくても良かったんじゃないですか?」 きっと私はそんな彼が憎らしかったのだろう。 私が何を思い彼から目を逸らさずにいられないのかを、まるで気づこうともしない彼が。 「・・君が残って仕事をしていると聞いたので、」 奇しくもこの時ばかりは私は彼を見つめていた。 「君とクリスマスを過ごしたかったのですよ」 私の言葉に真っ黒の眸が子供のように丸く見開かれる。 ゴトリと回されていたボールペンが彼の手から滑り落ちた。 それでも依然変わらぬ彼の表情を見て、私の胸はすくはずだったのだ。 彼の目の縁が朱色に染まるのを目にするまでは。 「名字君?」 「か、らかわないでください…」 くしゃり、と前髪をつかむようにとかして彼が視線を伏せる。 心を乱されるのはいつも私の方だ。 居た堪れないかのように睫毛を震わせる彼を前にしてもなお、苛立つほどに胸が騒ぐ。 「なんで室長が驚くんですか…」 からかったわけではない、と口にすることが出来ない。 暖房が壊れたというのもつまらない嘘で、残ってる者がいると思わなかったなんていうのも下手な演技で。 ただ君に会いたかったのだと。 「何故でしょうね」 口にすることが、出来ない。 「…ずるいですよ」 浮かんだ笑みは自嘲だった。 確かに私はずるいのだろう。 ついには耳まで赤くする彼のそれがどのような意味を持つのかなど、もうわかっている。 「あーもう仕事してください。こっち見んな」 誤魔化すようにボールペンを手に取り彼は自分の書類を視線でなぞり始める。 つい笑い声を漏らした私にも彼は顔を上げない。 「名字君」 「なんですか」 名を呼ぶと拗ねたような口調で彼が答えた。 眩しい笑顔も幾らか子供っぽい態度も、そのボールペンが一向に書き込む気配を見せないのもすべてが愛おしい。 「好きですよ」 漸く彼の顔が私を向く。 その唇がずるい、と動くのが見えた。 |
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