木漏れ日の唄
ふわ、 と柔らかな香りが髪を揺らした。
元から左の視界に掛かる毛束が何処かへ消えたと思ったら、今度は右の方に姿を見せた。
風に乗って、仄かに開いたばかりの蕾の匂いがする。
細かな光が足元の草花をさやさやと照らす。
先程から停車していたバスが、低いエンジン音をたてながら隣を過ぎていった。
オイラは、すん、と息を吸って空を仰ぐ。胸に広がるまだ冷たさが混じる空気が、より一層気持ちをシャンとさせた。
「いよいよ、今日からなんだな…」
雲一つない蒼弓に、過去と未来の想いを馳せてみた。
すぃ、と 何処からか現れた燕が滑空している。
きっとあいつも、新たな季節を迎えてやるべきことを始めているんだろう。
この踏みしめている道は、オイラの熱望した場所へと繋がっている。
何だか、今になって漸く現実味を帯びてきて躊躇する。
歩幅が微妙に小さいのが可笑しくて、オイラは自分の足を見た。
新調したジャケットの真新しい匂いと、履き慣れない革靴が徐々に緊張というものを連れてきたようだ。
最初だけだ。直にオイラの芸術を謳歌する毎日がやって来る。
此処で、どれ程の刺激を受けるだろうか。
どんな世界が待ち受けているだろうか。
そう思ったら、胸の底から沸き上がる高揚につられ、さっきの感情なんて何処かへ吹き飛んでしまった。
薄桃色の並木通りが遠くに見える。
鼻の奥を擽る歓喜の香りがより一層膨らむ。
ひらひらと風に舞う春の童達の中へ、オイラは緩やかに歩みを進める。
柔らかな花弁が鼻先を掠め、その何とも高貴で慎ましやかな香りが脳を満たし目を閉じる。
暫くそうして歩いて、そっと瞼を開くと眩しさで霞んだ桃色の世界が目の前に広がった。
光に目が馴染むまでの朧気な夢現の刹那が、胸にサワワと染み渡る。
その中に、微かに周りよりも濃い色が一点、目に止まる。
徐々に近付くそれは、歩めば歩む程に燃えるような赤になり 儚げでいながらも刺す様なその存在感に、またもオイラはこの道でキュ、と胸を痛めるのだ────
『──い…、おいデイダラ』
浅い微睡みの中で、その人物が誰かを呼んでいた。 「………、…ん」
薄ら目を開けると、顔からズレた参考書の片隅につい今会ったばかりの人物が。
「…旦那か……んだよ、今いいとこだったのに」
よっ、と短く声を出してオイラはベンチから体を起こす。
その拍子に バサ、と地面に落ちた分厚い本を旦那は呆れ顔で拾った。
『へぇ、検定に落ちたヤツが余裕じゃねぇか…こんな所で昼寝とは』
「だからこうやって勉強してんだろうが、うん」
暖かい陽射しと共に皮肉を浴びたオイラは、"色彩検定必勝法" と文字を連ねるソレを受け取りベンチから立ち上がった。
爽やかな午後風が吹いている。
気持ちが良くて眠ってしまったオイラは悪くないと思う。
旦那の髪もふわりと揺れて、五月の太陽をキラキラと遮る青い木々を見上げた。
そこから漏れた木漏れ日が、旦那の赤い癖っ毛を不規則に照らした。
『じゃあ帰るぞ』
その言葉を合図に、オイラ達は新緑の並木道をいつも通りに歩き出す。
あれだけ重要と言われた色彩検定は見事に滑り落ち、激怒した旦那に最後の砦で入試問題を徹底的に叩き込まれた。
首の皮一枚で繋がっていたオイラは、死ぬ気で猛勉強を重ね、面接の練習もひたすら毎日繰り返した(トビを使って)。
そして手持ちの数少ない資格と気合いだけで乗り込んだオイラは、何がどうなってこうなったのか 見事念願の名門校
「暁芸術美術大学」への進学を果たしたのだ。
何か良からぬ力が裏の方で働いたような臭いがするのは…きっと気のせいだ。
チチチッ と鳥達が木漏れ日の下で囀り、さわさわと精気に満ちる緑葉の軽やかな音が頭上から降る。
入学してからも、日々のカリキュラムと試験勉強に追われるオイラにとって、この時間が唯一の癒しだ。
隣を歩く眠そうな瞳をした存在が酷く心地良い。
傾き出した陽射しが、サァサァと音を立てる噴水の水面を 芸術的に反射させた。
「そういえば…今日の作業はどうするんだ、うん?」
ふと、恒例のギブアンドテイクという名のお手伝いを思い出した。
いつもは創作準備室で色々と文句をつけられながらも進めているが、もうすぐ何かしらの期限が来るとか言っていた筈だ。
どっかの施設の創立記念作品にと、旦那に直直に依頼があったらしい。
その寄贈期限が迫ってるせいか、近頃はギブ率の方が高くなっている訳だが…やはり旦那には壮大な恩がある。
それに、断る理由も無い。
『あぁ、今は彼処には無ぇんだ。加工の過程で特殊な液剤を使ったからな…家の縁側で乾燥させてる』
「え、あんなデカイもの持ち帰ったのか」
『…車くらいあるからな』
そう言うと、また何処か別の世界を見ているような目で彼は遠い空を見上げる。
少しだけ、恐くなった。
実際に、彼の実力は凄かった。
写実的かつ現実的な作風と、それに恥じない高度な技術が組み合わさり、独特な重厚感溢れる世界観を醸し出している赤砂作。
何度も入選や受賞を繰り返している彼の生み出す作品には、校内外問わず誰もが認めている程だ。
目指す方向性は違えど、その才能の底光りは…オイラにも理解出来た。
いつか、本当に知らない世界に行ってしまう気がした。
そんな取り留めもない空想に思考を巡らしているうちに、遂に分かれ道がやって来てしまった。
ここを左に曲がり真っ直ぐ行けば、オイラの通うバス停がある。
本当に望むものは あっという間に過ぎ去ってしまうものだ。
「じゃあ旦那、また明日な!うん」
先に足を止めたオイラを、眠そうな目が振り返る。
『…なに帰ろうとしてんだ。今日も補佐日だろうが』
「へ?だって今それは旦那ん家なんだろ?」
オイラの台詞に心なしか旦那の眉間が寄る。
『だから、俺ん家で作業するんだよ』
さも当たり前かのように、しれっと言ってのけたその言葉の意味に オイラは大きく動揺した。
「ぇえ!?…だ、だだだ旦那の家─!?」
つまり、そうだ。
オイラ達は未だ、互いの家を行き来した事が無い。
想いが伝わったあの聖夜から今に至るまで、怒涛の日々を過ごしていた二人にそれ以上の進展などなかったのだ。
『何だ、問題でもあんのか』
「い、いや!全く、でもその……」
心の準備が。
(いやいや、ただ作業の手伝いに行くだけだし、別に準備とかそんなの必要ねぇし)
『……、何か変な事でも考えてんのか?』
目の前の赤が口角を上げた。
「─ッちっげーし!!んな訳ねぇだろ馬鹿旦那!」
その顔に色々と持っていかれたオイラは不自然な程全力で否定した。
現在の願いは、今すぐこの顔を隠したい という事に尽きる。
そんなオイラを鼻で笑い、旦那はさっさと大通りを渡り出す。少し行くと、彼が通う駅が見えてきた。
同時に駅前の古めかしい小美術館が目に入る。ここには何度か旦那と足を運んだことがあるが、小さいくせになかなか興味深い作品が所狭しと並んでいて、かなり魅力的だ。
近日、あの有名な近代アートの巨匠の展覧会が開催されるというから一大事。国芸を極める道に繋がるに決まっている。
…オイラはまず、入館料の地点で門前払いだが。
あと何度目の給料を貰ったら行けるだろうか。
最近始めたばかりのバイトの時給を、何となく頭の中で計算してみた。
ため息が出た。
「そういや旦那、車あんのに何で電車通学してんだ、うん?」
さっさと思考を切り替える事にしたオイラは、小さな疑問に乗り換える。
『あぁ…俺ん家の前がすぐ駅だからな。それに、一駅だけだからこっちのが楽だろ』
二人で改札を抜け、ホームに向かう階段を昇る。
成る程、旦那らしい答えだ。だいぶ日も落ちて来たようで、疎らな人が佇むホームが黄金色に染まっている。
目的の電車は、五分と経たずそこへ滑り込んできた。
車内は人も少なく、座席もガラガラに空いていた。
だが、旦那はドアの右端に軽く凭れ目を閉じたので、オイラもその左端で立つことにした。
そういえば電車とか久々だな、なんて思ったりした。
緩やかな揺れと定期的な振動が、ふわふわとオイラ達を乗せて現実から遠ざかる。
このまま オイラ達は何処へ行くんだろうか、終着駅はどんな世界だろうかとか考えたら 少しだけワクワクした。
夢の国 なんてメルヘンチックな事は言わないが、まだ見ぬ至極の世界というものがこの先にあるのかもしれない。
そうしたら、旦那は来るだろうか。
カタタン、と さっきまでと違う音が鳴った。
目の前に 川が広がった
車両が鉄橋の上を走る。
穏やかな黄昏時のせせらぎが 遥か遠くまで続いている。
夕陽を乱反射した水面がチカチカと目に刺さり、けれどその瞬間的な美しさをオイラは目一杯瞳に焼き付けた。
(…凄く、綺麗だ─‥)
ふと旦那を見ると、さっきと変わらない姿勢で目を閉じたままだった。
そんな、彼にとっては見飽きた光景ですら また一つ知れた喜びにオイラの胸の奥はじんわりと熱を帯びた。
(旦那の髪…)
車窓からストレートに浴びた茜色の暖光は、いつもより格段に鮮やかに しなやかにその芸術的な髪を輝かせている。
瞬きを忘れるくらいだった
視線は下のまま、旦那の薄い瞼がふと開いた。
無意識に伸ばしかけていた手を急いで引っ込めた。
そして、硝子玉のような神秘的な瞳がオイラの目を見つめ…すぐに窓の外に流れた。
…やっぱり反則だ
夕陽を眺める横顔を直視出来なくて、それでもオイラは、旦那にはどうしようもなく夕陽が似合うと思った。
────────────
『先に二階上がってろ、俺はアレ取ってくるから』
「うん、お邪魔しまーす」
挙動不審なアイツをさっさと自室へ上げ、俺は早速縁側に向かった。
二日間、天日干しで乾燥させた表面は無事、予想通りに仕上がっていたので一安心する。
後は最終的に少し手を入れ、二人がかりで磨き上げれば今日中に仕上がる筈だ。
重さのあるソレを慎重に抱え、俺は階段をゆっくりと昇る。
なんだかんだで、最近は手伝わせてばかりだな と改めて振り返り、終わったらちゃんと構ってやろうと心に決めた。
部屋のドアを開けると、隅のベッドに腰掛けた奴が青い目を忙しなくさ迷わせていた。
どうやら色々と物色中のようだ。
『……別に面白いモンなんてねぇぜ…』
俺は部屋の真ん中の作業スペースに どっかりとソレを置きながら言った。「いや、オイラは興味津々だぞ…うん」
そう言う奴につられ、俺も改めて部屋を見回してみたが、必要なものしか無い殺風景な景色しか目に入らない。
壁には油絵や水彩画が額無し剥き出しの状態で並び、簡素な棚には過去に作った彫刻や土器、傀儡などが無造作に陳列されている。
賞状やトロフィーは邪魔だったから一ヶ所に纏めてしまって、観賞の意味を成していない。
「こいつぁすげぇな…オイラにはこの作品達の価値はよく解らねぇが、ここは間違いなく芸術家の部屋だ、うん」
明らかに生き生きとし出した声に、何だか腹の底が擽ったくなった。
…相変わらずおかしなヤツだ。
俺は換気も兼ねようと小さな窓をカララと開けた。
深い夕陽が、ちょうど真正面に落ちていくところで さっきよりも少し温度の下がった夕風が白いカーテンをふわりと揺らした。
作業の手順説明をと振り返ると、橙色に染まった奴の髪が仄かに靡いていた。
込み上がる何かを咄嗟に塞き止める。
胸の奥で打ち付ける脈拍と理性が交互に押し寄せ、伏せ目がちな奴の表情に俺は釘付けになった。
「この写真…」
その言葉で我に帰る。
『あぁ、それは……俺の故郷だ』
そいつの視線の先にあるものを見て平静を装い答える。
その手に収まるものは、俺が幼い頃に生まれ育った街だった。
「え?…旦那、フランス人だったのか?」
『馬鹿か、どう見たって違ぇだろ』
すっとんきょうなボケをかますヤツを一睨して、俺は漸く作品に向き合い床に座った。
『……俺の親は共に、プロの写真家でな。俺が生まれる前からずっと、世界中を飛び回り各地で名作を生み出していた。そして俺が生まれてからは、暫くヨーロッパを拠点として活動していたが……ある日二人は帰らぬ人となった』
ガタタン… と、電車が過ぎ去る音が聞こえる。
『中東で勃発した内部戦争の犠牲になった。俺は何も知らされぬまま…この国へ引き取られた』
俺は何を 話してるんだろう。
こんなどうしようも無い 過去の出来事なんか。
( くだらねえ‥‥)
それなのに 何故かコイツの前では、かけた筈の鍵がカタカタと音を立てる。
俺は筆を手に取り、仕上げの艶消し作業に取り掛かった。
「…そうだったのか……じゃあこっちが、アンタの両親なんだな」
未だベッドに腰掛けるソイツは、枕元に並んだ隣の写真立てを手に取った。
「やっぱ旦那の才能は、親譲りだったんだな…うん」
嬉しそうな声が部屋に広がった
「その髪も、その目も、二人の芸術をそのまま愛として貰ったんだ」
息が 苦しくなった
ヤツの笑顔が 胸に沁みた
何だか今日は、心が中々落ち着いてくれない日だ───
『…ったく、戯言ばっか吐いてねぇでさっさと手伝えよ餓鬼が』
「あぁはいはい、わかりましたよ」
しばらく黙々と作業をしているうちに、窓の外はすっかり夜になっていた。
時折吹く夜風が、カーテンを気まぐれに揺らす。珍しく奴も 握った筆の先に集中しているようだ。
額にうっすらと汗が滲んでいる。
「オイラ、どうしても叶えたい夢があんだ…うん」
急に口を開いたかと思ったら、硬く力の籠った言葉が 部屋の中に転がった。
『…夢?』
いつもの煩い持論の事か。どうせまた爆発だの究極だのと騒ぎ立て、終いにゃ早死にを肯定するくだりになるんだろうが。
そう思った。
「オイラ、花火師になりてぇんだ」
動かしていた手首の運動が止む。奴のはまだ 動いたまま。
『花火師……』
俺の呟きにヤツはニィッと口角を上げ、その蒼弓の眼をキラキラと輝かせる。
「そうだ!漆黒のキャンバスに描くあの一瞬の焔…!刹那の残光…!正に、オイラの芸術だ──!!」
コイツの夢を、初めて聞いたかもしれない。
聞き飽きたいつもの芸術論に気を散らされ、大事な事を知らないままでいたのか、俺は。
「その為に世界の芸術を学び礎を築く。そしていつかこの国の伝統を背負い、世界一の爆花を夜空に咲かせるんだ!うん」
コイツらしい、夢だった。
『…ふん、そんな何も残らねぇもんを作る意味あんのか』
だが、何故だか素直な言葉が見つからない。
「解ってねぇな旦那、消えちまうからいいんじゃねぇか。消え行くと知ってるからこそ…その一瞬に何もかもを詰め込む、その一瞬に命を懸けんだ!」
煽れば素直に食い付くコイツの持論も 今は不思議と心地良い。
薄曇に隠れていた黄爛の月が、にわかに暗い室内を照らした。
奴の髪が月光を浴び、更に明るさが増したように見えた。
キラキラでもなく、フワフワでもなく、ただ俺の目の前にしっとりと光を蓄えたその髪が、たまらなく美しいと思えた。
「聞いてんのかよ旦那」
『…あぁ──』
やはりコイツは俺の中を揺さぶる何かを持ってるようだ。
いつも通りの得意気な口調も、自信に満ちた目も、今日は何だか酷く鮮明に感じる。
胸の奥が ほくほくと熱を上げる
「オイラはこういう "受け継がれる美" ってのに共感は出来ねぇけど、でも純粋に、旦那の芸術はすげぇと思、え る な… うんッ──!?」
珍しくはにかむ奴の顔を見て、何かが弾けた
作品を挟んで向かいに座るコイツの隣へ近付きついでに、その上半身を寝具に倒し肩を縫い留める。
ギッ、とスプリングの軋む音が響いた。
「?旦──ンッ、…」
重ねた俺の上半身の重さが更に奴の肩に加わり、また寝具が沈む音を立てた。
「んっ‥‥、ふ──」
息継ぎの暇を与えぬ程に、俺はコイツの味を深く求める。
シーツの上に散らばった金色の髪と、開けたシャツから覗く肌が 何とも魅惑的にそして情欲的に俺を煽る。
俺はボロボロと崩れ去る理性の音をすぐ傍で聞きながら、目の前のコイツに突き上がる感情をぶつけた。
さほど抵抗が解れた頃合いに、俺は奴の口を解放した。
蒼い瞳が薄い涙膜を湛え、俺を真っ直ぐに射抜く。
頬は月明かりでも判る程に色付き、はだけた胸は苦し気に上下している。
その期待に濡れる蒼眼は、俺の本能を剥き出しにするには効力がありすぎた。
『デイダラ…』
この糞餓鬼が、俺は耐えてたのに お前が悪い
奴の脇を抱え上げ、同時に二人分の身体をベッドに沈ませる。
「旦那……作業…やんねぇと‥‥んッ、」
『そうだな』
「今日中にッ…仕上げ──ふぁ…!」
『……そうだな』
現実と夢の狭間を漂うさざ波のように、俺達は深い夜へと堕ちて行く
肩口に頭を沈め 首筋に舌を這わせる度、奴の漏れる息声が俺をおかしくさせた。
待ちわびた光景が今、俺の視界を支配する。
『嫌か?……』
奴に跨がり そのやけに大人びて見える白い肌に手を這わす。
眉間を寄せ色気を滲ませる奴は、返事の代わりに俺のシャツのボタンに手を掛けた。
静かな月夜の一室で ようやく触れ合った熱と愛が産声を上げる。
噛み付く様な互いの口付けの中、伸ばした手を奴のベルトにかけた。──その時。
「サソリよ、お友達が来とるんじゃろ?茶でもどうかの」
ノックと同時に部屋に飛び込んできた予想外の人物に、俺達は半ば突き飛ばし合って態勢を整えた。
「あ、チ…チヨバアさん!お邪魔してます…うん」
振り向き姿でボタンを乱雑に留めながらデイダラは軽く挨拶を口にする。
「おぉ、そなたはいつぞやの見舞いに来てくれた子じゃな?」
「あ、あぁ、足はもう良くなったのかい?」
「ギャハ!ギャハ!お陰様でな。この通りピンピンしておるよ」
そんな会話をしながら、ババアは作業途中の床にグラスの乗った盆ごと置いて俺を見た。
「一言声を掛けてくれればもっと早く来たんじゃがのう」
『……チィッ…』
何でよりによってこのタイミングなんだ
茶ぐらいいつでも持って来れただろうが、狸ババア…!
不愉快極まりない気分になった俺は、視線を合わさず窓の外を見た。
「全く…相変わらずワシの前では無愛想じゃのぅ…(そなたといる時とは別人じゃな)」
最後の方のヒソヒソ声もばっちり聞き取れた俺は、邪魔者を見るような目で退室を促してやった。
「さて、後は若い者に任せて…年寄りは退散するとするかの」
いつもよりも数段ご機嫌な笑顔で、その台風は漸く通り過ぎていった。
俺達の心境は正に、嵐の後の荒野みたいに変に静まり返っていた。
「と…とりあえず作業の続きやるか、うん!」
『……あぁ。そうだな…』
結局、そういう空気に中々戻れなかった俺達は、研磨布を動かしながらいつも通りに雑談を続け…気がつくと、バスの最終時刻が近付いていた。
今回、中途半端でもどかしい事この上ないが、それよりも今日は色々な収穫があった。そして、もっと大切な事がある。
今日、奴を呼んだ最大の理由──
俺は、ベッドの下に脱ぎ捨てられた奴のパーカーのポケットに、折り畳んだ封筒を突っ込んだ。
────────────
『本当にいいのか、送らなくても』
「ああ、オイラはバスが慣れてるし…この駅からオイラん家の方に行く路線があってラッキーだぜ!旦那は仕上げをやってくれ、うん」
『あぁ、ありがとな…助かったぜ』
そういうと、旦那はオイラの額にキスを一つ落とし またも芸術的な髷をわしゃわしゃとかき混ぜた。
「ちょ、やめろよ、誰か見てたらどーすんだっ、うん!」
『こんな暗いのに見える訳ねーだろ』
(…運転手が見てるっつの!!)
それでも振り払う事はせず、彼の気が済むまで撫でられた後に、オイラはバスに乗り込んだ。
月明かりでも柔らかに主張する彼の赤い髪が 徐々に遠ざかる。
離れる程に、今夜の出来事が脈を打つ。熱が、感触が、記憶に刻まれる。
彼を知るごとに どんどん溺れ 沈みゆく自分が恐い。
だが同時に、例えようもない幸福感にも包まれる…
もう 後戻りは出来なかった。
カサ─。
何かが擦れる音が聞こえた。
(ん……?)
上着をまさぐると、ポケットから見覚えのない封筒らしきものが出てきた。
しげしげと中を覗いてみると、何やら映画のチケットのような紙切れが二枚入っている。
(何だこれ……)
覗くだけではよく解らなかったので、思い切って中身を出してみた。
「──!!!」
あまりの衝撃にオイラは目を疑った。
それは映画のチケットなんかじゃなく、もっと高貴で、もっと独創的で、アートと呼ぶに相応しい作品がプリントされた…あの展覧会の入場券だった。
(何で…)
言葉を失いつつも、震える手で裏面を見た。
そこで目にした文字に…オイラは泣きたい気分になった。
"誕生日おめでとう
デイダラ"
やっぱり送ってもらわなくて、良かった
月夜のバスに揺られながら、オイラは何度もその紙の裏表を眺めた。
不器用な彼の精一杯の愛を受け取り、オイラはユラユラと揺れる帰路を辿りながら 幸せを噛み締めた───
(そう言えば今日…オイラの誕生日だったな、うん)
END
2013.5.15