「好きだ」
一体何の罰ゲームだと頭を抱えたくなるのをどうにか堪え、クロコダイルは重い重い溜息を吐いた。きっと聞き間違えだ。そうに違いない。そうでなければこれはきっと夢だ。例え現実逃避と言われようとも、そうやって思考をどこかに逃がしてやらないと耐えきれない。わざわざ聞き返してやるのも、きっとまた精神的なダメージが増大するだろうから出来ればしたくない。眉間に刻まれた皺は更に深くなり、クロコダイルは(心の底から)嫌そうな表情を目の前のピンクの塊に向けた。クロコダイルの機嫌が急降下した原因のピンクの塊――ドフラミンゴはそれでも引き下げられた口角を持ち上げることなくクロコダイルを見詰め続けている。常々スマイルを推奨しているドフラミンゴにしては珍しい事に、今日は姿を露わしたその時から口許に笑みは浮かべられていなかった。その代わりに常からは想像出来ない程に真剣な声色と眉間(生憎彼には眉毛は存在しないのだが)に刻まれた皺。一体何事かと神経を尖らせたクロコダイルにドフラミンゴが告げた言葉は、しかし冒頭の意味不明の質問であった。もう一度脳内で言われた言葉を再生する。間違いない、この暑さで沸いてしまったのだろう。クロコダイルはそう結論付けると深く息を吸い込み肺を満たす煙を十分に楽しんでから静かにそれを吐き出し、一泊置いて漸くその重い口を開いた。
「…誰に言ってるか分かってんのか、テメェ」
「当たり前に決まってんだろうが」
ああ、やはりこれは何かの罰ゲームかもしれない。クロコダイルは今度こそ銜えていた葉巻を灰皿に置き直すとデスクに肘を突いた右手で額を押さえ軽く顔を伏せる。クロコダイルとて、海賊などという基本的には周りが男ばかりの稼業をしている身だ。別段男同士のアレソレなど珍しいものではなかったしクロコダイル自身も経験したことが無いわけではない。だがそれは決していい思い出という訳でもなく、相手によってはもはやただの虐めや拷問となんら変わりはない。部屋の周りで悠々と泳ぐバナナワニ達が今だけは酷く羨ましく感じられた。どうすればこの違和感しかない状況から抜け出せるかクロコダイルはその優秀な頭脳で必死に打開策を探そうとするのに、ただ此方の出方を窺うように微動だにしないドフラミンゴの視線が気になって集中出来ない。否、もしかしたらこれはただ単に動揺している自分を見て喜んでいるだけではないのか。
――いや待て動揺ってなんだ。動揺してるのか俺は。
馬鹿馬鹿しい。そう思うのに、引き結ばれたクロコダイルの口からその言葉が発せられる事はない。そもそもこのドフラミンゴという男は何もかもが唐突過ぎるのだ。少なくとも、己に向かって言う台詞ではないだろうとクロコダイルは思う。一月程前にドフラミンゴがこの部屋を訪れた時には確かに普通だった筈だが、この短期間で一体何があったというのだろうか。
黙り込んだまま一言も発さなくなってしまったクロコダイルを見下ろしながら、ドフラミンゴは軽い諦めに近い思いを噛み締めていた。ドフラミンゴ自身、今回己の口から思わず飛び出た台詞には驚かされている。我ながら下手を打ったと自嘲するが、言ってしまったからには返事をもらうまでは梃子でも動かないつもりであった。そもそも発端はクロコダイルにあるのだ。





1週間前、ドフラミンゴは例によってレインディナーズに位置する巨大なカジノのその更に奥…クロコダイルの執務室を訪れていた。当然事前連絡など全くない急な訪問であるが、今更そんな些細な事を気にするドフラミンゴではない。だが自他共に認める傍若無人なドフラミンゴは、今初めて連絡せずに訪問した事を後悔していた。カジノの従業員達が必死に引きとめようとするのを難なく振り払い辿り着いた執務室。一面を巨大な水槽に覆われ部屋の主のペットであるバナナワニが悠々と泳ぐその姿はいつ来ても変わらず、分厚いガラスが遮っているのか水槽内の音は全く聞こえない。静寂が包みこんだ室内はいつもと全く変わりがないはずなのに、そこにあってはならない光景が広がっていた。その光景を正面から目の当たりにしてしまったドフラミンゴは衝撃のあまり言葉すら失って立ち尽くす事しか出来ず、いつものように口角を吊り上げ笑みを形作ることも忘れてぽかんと口を開いたままそれを凝視した。革張りの上等なソファの上、眉間に深い皺を刻んで瞳を閉じたままぐったりと横たわるクロコダイルの姿は、何度サングラスを押し上げずらしても変わらずそこに存在している。だらりと垂れ下がった右手からひらりと一枚落ちた書類がドフラミンゴの足元へと舞って来るものの、それに気付くことなく引き寄せられるようにソファへと近付いてみればピクリとも動かないそれにさすがに不安に似た感覚が背筋を上った。辛うじて呼吸音が聞こえてくるから死んではいないようだが、あのプライドの塊のようなクロコダイルがこんなにも無防備な姿を晒しているだけでも十分に異常事態だ。しかしドフラミンゴは、近付いた先で覗きこんだクロコダイルの顔に更に凄まじい衝撃を受けることとなる。深く刻まれた眉間の皺はいつも通りだが、いつも葉巻を銜え煙と共に暴言と嘲笑を吐き出す唇は薄く開かれたまま時折甘やかな吐息を零している。規則正しいその呼吸に、ドフラミンゴは不意にある事実に行き着いた。
「………寝てんのか…?」
そう、クロコダイルのこの様子は明らかに眠りこんでいる様相だ。否、人間なのだからそりゃあ睡眠は必要だろう。寝なくても生きていける人間など、この広い広い海にはもしかしたら入るかもしれないがこの男はどちらかといえば睡眠はとらなければ生きていけない人間の筈だった。だが、それとクロコダイルが他人の気配に気付かずに眠りこんでいる事とは話が別だ。よりにもよってドフラミンゴの気配に気付かないクロコダイルではあるまい。ドフラミンゴは動揺を隠す事が出来ずに更にソファに近寄ると、そっとしゃがみ込んで未だ眠りこけるクロコダイルを観察し始めた。獰猛な鰐を思わせる鋭い金の瞳が瞼に隠されている、ただそれだけのことで険の無い表情は酷く穏やかに見えた。顔の前で手を振ってみても、小さく声を掛けてみても目を覚ます気配は全くないが、触れてしまえば目を覚ましてしまうだろうか。多少眉間に皺が寄ってはいるものの、それでも睨みつける以外の表情を浮かべるクロコダイルに何か新鮮なものを感じているのかドフラミンゴは起こしてしまうのを勿体ないと思った。このまましばらく眺めていたい、とも。
――いやいやいや、待てよおれ。
暫しクロコダイルの寝顔を眺めていたドフラミンゴは、不意に我に返った。なんだ眺めてたいって。反応しないワニになんの魅力がある。おれがこの男に付き纏うのはちょっかいを出すと面白いからであって、別に特別執着しているとかそんなつもりでは全くないはずだろう。面白い玩具程度としか思っていない筈だ。否そうじゃないと困るだろう色々と。何がってだっておれが好きでもこいつは違うだろ。存外優秀な筈の脳味噌でぐるぐると考え始めたドフラミンゴだったが、だんだん思考が怪しい方向へと向かい始めた事には全く気付いていない。だから、クロコダイルがむずがる様な声を出して顔を背けた際に顔にかかった一房の髪を、邪魔だろうなと思って手を伸ばし払ってやったのも無意識からの行動であった。その瞬間、僅かに震えた瞼がゆっくりと開いていくのを視界に捉えながらも咄嗟に反応出来ず、髪を払う際に指先で触れた頬が思いの外冷たくて思わずそれを温めるように掌で頬を包んでしまったのも、完全に無意識からの行動だ。うっすらと開かれた、どこか緑掛かった金の瞳と視線が絡みあった瞬間にしまったと感じるもののもう時すでに遅く、クロコダイルの眉間に元々刻まれていた皺が更に深みを増す。反射的に口角を吊り上げ口を開こうとしたドフラミンゴが次に目にしたのは、本日今までに感じた衝撃を全て吹っ飛ばしても尚有り余る破壊力を有した光景であった。
「…は?え、ちょ…」
緩慢な動作で幾度か瞬きをしながらドフラミンゴを視界に写した筈のクロコダイルの金の瞳は、再びゆっくりと閉じられてしまった。幾秒もしないうちに辺りに響き始めた穏やかな寝息に完全に己のペースを乱され固まってしまったドフラミンゴは、間の抜け切った声を漏らす事しか出来ない。なんだ今のは。なんでこいつまた寝たんだ。俺がいるの気付いたよな?なんだそれ意味分かんねェ。混乱を極めたドフラミンゴは一先ず冷静さを取り戻す為にクロコダイルの頬を包んでいた手を離し立ち上がる。だが、ソファを離れようとしたドフラミンゴは何かに引っ張られるような感覚を覚え後ろを振り返った事で、さらなる混乱がドフラミンゴを襲った。先程まで投げ出されていた筈の右手が、しっかりとドフラミンゴのコートを掴んで離すまいとしている。クロコダイルに起きている気配はないからおそらく無意識に掴んでしまっているのだろうが、ドフラミンゴからしてみればまるで縋られているようにしか見えない。
――あァもう、なんだこの可愛い生き物は。
…いやまて明らかに今のはおかしいだろう。誰が可愛いって?目の前で寝てるのはあの凶悪なワニ野郎で、確かにおれはこいつの事を気に入っちゃいたがそれはあくまでも暇つぶしの玩具としてであって…。
――あァ…やべェな。
再びぐるぐると考え始めそうになる頭を軽く振って思考を中断させると、ドフラミンゴは改めて己のコートを掴む手を見下ろした。全ての物に渇きを与えるクロコダイルの右手は、今はその能力を発揮する事も無くただドフラミンゴを引き止めているだけだ。それが無性に嬉しく感じてしまい、ドフラミンゴは今すぐにこの場から逃げ出したくなった。それを実行に移すべく、ドフラミンゴは掴まれたコートから羽が抜け落ちるのも構わずに豪奢な絨毯を踏み締めつい先ほど入って来たばかりの扉へと足を進める。時間が必要だ。今胸を渦巻くこの感情を否定するにも受け入れるにも、まずは考える時間がなけれなならない。
一先ず逃げる事を選択したドフラミンゴが部屋を去ってから一刻程してようやく目を覚ましたクロコダイルが己の手に握りしめられた数本のピンクの羽に首を傾げたのはまた別の話。





そう、あれから1週間。ドフラミンゴは船に揺られながら必死に考えた。寝る間も惜しんでこの1週間常に考え続けていた。結局結論としてはクロコダイルにとっては最低で最悪のもので、ドフラミンゴにとっては認めてしまえば至極簡単に開き直れるものであった。だが認めてしまったからと言って、クロコダイルにそれを今伝えたところでただ一笑に伏されるだけだろうという確信はあったのだ。だからこそ、ドフラミンゴにはまだ伝えるつもりは一切なかった。それなのに、今日一週間ぶりに顔を見たらこれだ。考える暇など小指の爪の先ほども無かった。気が付けば口にしてしまっていたドフラミンゴは、ああ、これが恋はいつでもハリケーンってやつか、と心の中で溜息を吐いた。クロコダイルの反応からしてあまり期待は出来ないが、それでも入ってしまったものは仕方がない。この先必死になって猛アタックしていけばいいのだ。嫌われている訳ではない事はこの部屋に当たり前に入りこめている事で分かっている。クロコダイルと言う男の事は、決して短くはない付き合いの中で多少は理解しているつもりだ。嫌いな人間を己のテリトリーに入れる男ではないから、多少なりとも受け入れられている事は確かだと確信出来た。それだけでいいかもしれないと思ってしまう己は、こんなに殊勝な人間だっただろうかとドフラミンゴは自嘲気味に笑った。






不意に笑みを浮かべたドフラミンゴを、クロコダイルは怪訝な表情で見上げた。数分に渡って黙り込みただ此方を見下ろしていただけだったドフラミンゴの笑みの意味が量りかねる。なぜかその笑みが無性に癪に触りクロコダイルは己ばかり悩まされている事に僅かに怒りを感じ始めた。
「…おい、ドフラミンゴ」
「……あ?」
わざわざ名前で呼びかけてやったのになんだその間は。全く以て気に食わない。ドフラミンゴからしてみれば普段やれクソミンゴだの鳥頭だの呼ばれている身としてはちゃんとした名前で呼ばれただけでも心が躍るというものだが、彼のそんな心の葛藤など知らないクロコダイルは更に機嫌を悪くする。俺を好きだと言うのなら、他の事など考えずに俺をただ見ていればいいのに。そんな考えがふと脳裏を過り、クロコダイルは愕然とした。これではまるで、ドフラミンゴが口にした台詞がそのまま己にも当てはまっているようではないか。馬鹿馬鹿しい。ありえない。いくつもの否定を思い浮かべてみるものの、言葉では言い表せない焦燥感が胸を焦がしクロコダイルは心底辟易した。これはどうにも、あまりよろしくない展開になりそうだ。だが簡単に応えてやる気はクロコダイルには無かったし、現状を維持していたいと思ったことも事実ではあった。
「…いいか、一度しか言わねェからよく聞け」
そう言って深く腰掛けていたソファから腰を上げると漸く縮まった(それでも見上げなければドフラミンゴの顔を見ることは出来ないが)ドフラミンゴとの距離を縮めるように、左手の鉤爪のカーブの内側にドフラミンゴの首を捕らえた。力任せに引き下ろすとそれに逆らうことなく近付いてくるドフラミンゴと鼻先が触れ合うほどに距離を縮めたクロコダイルは眉間に皺を刻んだ非常に不機嫌な表情のまま口を開く。
「俺が欲しいなら、その気にさせてみろ」


ただ認めるのは癪だった。だからしばらくは俺の為に必死になればいい。そうして俺が満足出来たら、考えてやらない事もねェな。




micro様リクエストの、「最初に付き合い始める馴れ初め的なお話し。甘いの」でした。…あれ、付き合い始め…てない…?おっと…水無月はどうやら何かを履き違えていたようです。気付いたらこうなってました。
micro様、返品可ですよ…!書き直せと言われれば喜んで書き直しますよ…!
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