クロコダイルはプライドが高い。それはもうバベルの塔もかくやという程に。そしてそのプライドに見合うだけの実力を持ち合わせているのだから厄介であった。それは強さであったり見た目であったりと様々だが、とにかく彼のプライドは自他共に認める高さであり、そのプライドを傷付けられたとあっては黙っていられるものではない。互いに納得したとはいえ、誰も仕返しをしないとは言っていない。肺一杯に吸い込んだ少し苦いその煙をゆっくりと吐き出しながら、世界政府の紋章が施された白い封筒を砂に還したクロコダイルはその形の良い唇の端を軽く吊り上げた。






これは一体どういう状況だ。ドフラミンゴは目を疑った。目の前に広がる光景はその意味を理解することを彼の優秀であるはずの脳味噌が全力で拒もうとする程に衝撃的なものであった。目を凝らしてよく見てみれば、それはもこもことした上等な毛皮に身を包んだ己の恋人(長い時間をかけて漸く手に入れたポジションだ)が、どこの馬の骨とも分からない男と談笑していた。否、男には見覚えがある。確かこの聖地と呼ばれるマリージョアで幾度も顔を合わせた事がある。少なくともそれなりに地位の高い人物であった筈だ。己の恋人であるクロコダイルが最も嫌うものの一つである海軍と、何故こんなだだっ広い廊下で話し込んでいるのだろうか。面倒くさい政府からの呼び出しに応じて聖地まで足を運んでみれば、面白くもなんともない、むしろ不快でさえある光景を目の当たりにさせられ常々スマイルを謳っている筈のドフラミンゴの口角は下がるばかりだった。面白くない。そう、それに尽きる。そもそも七面倒くさいことこの上ない七武海を招集しての定例会議などにわざわざ足を運んだ理由は、クロコダイルに会えるから、などという単純な理由からだった。最近何やらよからぬ事を企んでいる様子のクロコダイルは特大の猫を被って海軍に媚を売っている。それも気に入らないと言えば気に入らないが、海賊稼業に身を置く者として踏み入ってはいけない領域というものがあることは理解していたし、互いにその辺りに口を挟まない事は暗黙の了解となっていた。それをネタにからかうことはあっても別段なにをしようとしているか探るつもりはなかったし、クロコダイルの口から語られる事もなかった。当然、それに対して不満を持ったことは一度もない。だが、この光景はどうだろう。クロコダイルは至極楽しそうな表情を浮かべているし、対する男も満更ではなさそうだ。否、満更でないどころではない。どう見てもクロコダイルを見る目に欲が滲んでいる。
――あんなに楽しそうな顔、俺だって向けられた事ねェのに…!
ドフラミンゴは心の中で絶叫した。一体何が起こっているのだ。納得いかない。互いに有り余る程の時間がある訳でもない身。ぶっちゃけ一カ月ぶりに会えると言うのに港で顔を合わせた時のクロコダイルは非常に素っ気なかった。集まった七武海それぞれに宛がわれたなかなかに豪華な客室に一度荷物を運び込み、会議が始まる前にクロコダイルにちょっかいでも出しに行こうと彼の部屋へ向かう途中で出くわしたこの光景に多大なる不満を覚えても、誰もドフラミンゴを責めはしないだろう。クロコダイルと男のいる廊下の端までに距離はまだかなりあるし、おそらく此方には気付かれていないだろう。だが、それもドフラミンゴを不快にさせる要因の一つだった。
――おれに気付かねェ程、そいつと話してんのが楽しいかよ…!
そう、クロコダイルならばこの距離でドフラミンゴに気付く事も難しくはないだろう。現にいつもなら例え障害物があろうと人ごみの中であろうとクロコダイルはドフラミンゴの存在に気付いて何かしらアクションを起こしてくる。機嫌が良ければ声をかけてくるだけであったり、機嫌が悪ければいきなり砂嵐の歓迎にあったりと、その時々によって起こされるアクションに違いはあれど、だ。それなのに此方に気付く事も無くいけ好かない海軍の犬と楽しげに言葉を交わすその様は、酷くドフラミンゴを苛付かせた。






聖地マリージョア。クロコダイルにとっては何度も足を運んだ土地だが、何度来てもいけ好かないと思う。面倒くさい事この上ない定例会議など海軍や政府に媚を売る必要が無ければ鼻で笑いながら一蹴してやるというのに、いくら己の野望の為とはいえ嫌気が差すというものだ。だが今回ばかりはクロコダイルもこの日を心待ちにしていた。一月程前、あろうことか嫉妬などと言う感情をクロコダイルに覚えさせた不祥の恋人、ドフラミンゴ。不可抗力とはいえその高くそびえるプライドを傷付けられたクロコダイルはその大馬鹿者に対する些細な意趣返しを思い付いていた。簡単に言ってしまえば、自分だけ妬かされたのが気に食わないからドフラミンゴにも妬かせてしまおう、という心の底から馬鹿げた計画だ。だが、方法を間違えると下手をすればこの関係に終止符を打つことにもなり兼ねないとクロコダイルは考えていた。ドフラミンゴという男がどの程度己に執着しているかは量りかねている。だからこそ、この件はクロコダイルからしてみれば賭けの意味合いも含んでいた。そもそもあの鳥頭に嫉妬心などという高尚な感情が備わっているかどうかすらも怪しいものだが、それで嫉妬のしの字も感じられなかったらさすがのクロコダイルも落ち込むかもしれない。
そうして、クロコダイルは港で出くわしたドフラミンゴを軽くあしらいつつ必要以上に相手をすることなく無事聖地の土を踏むこととなった。
ドフラミンゴの事だ。どうせ一度宛がわれた客室へ足を運んだ後はそこでゆっくりすることなくクロコダイルの部屋を訪れるだろう事は今までの経験から分かり切っていた。ならばドフラミンゴの部屋から己の部屋までの区間で事を起こす必要性がある。相手は誰でもいい訳ではない。足を止め、此方の話に耳を傾け、余計な詮索はしない相手。頭の良い者はだめだ。いくら猫を被っているとはいえかつては懸賞金を掛けられていたクロコダイルを信用していないものはいくらでもいる。頭が悪く愚かで、目の前の情報だけを鵜呑みにする、ある程度の地位のある男。別に女でも構わないのだが、今更ドフラミンゴが女相手に妬心を表すとは思えない。そんなことを考えながら重厚な扉を開き己に宛がわれた客室を出たクロコダイルは、ほんの少し先の廊下に丁度良さそうな男を見付けた。名は何と言ったか。全く記憶に残ってはいなかったが、顔だけはみた事がある。間違いなく海軍の上層部に位置する男だ。確か会話を交わした事もあったが、その時も役に立たなさそうな男だ、といった感想程度しか感じなかった事を僅かに覚えている。
「…あァ、おい、そこのお前」
「ん?」
クロコダイルは僅かに笑みを浮かべると、クロコダイルに気付かずに(気配に疎い海軍など無能にも程がある)先を行こうとする男に声をかけた。若干嘲るような色が混じってしまったのには気が付いたが、振り返った男はそれに気付かなかったようだ。クロコダイルの姿を目にするなり、僅かに好色そうなその瞳を細めた瞬間をクロコダイルは見逃さなかった。――使える。予想外のその反応に、しかしクロコダイルは内心でほくそ笑んだ。思ったよりも役に立ちそうな男だ。ますます男に対する評価は下がったが、今必要なのは誠実さや忠実さなどではない。一般人と比べて遥かに背が高いはずのクロコダイルが見上げなければ顔が見えない巨大さはドフラミンゴを思い出させるが、図体のでかさ以外で目の前の男がドフラミンゴに勝るようなところは欠片も見付けられなかった。
「…なんだ、海賊風情が海軍様になんの様だ?」
「クハハ、その海賊風情をわざわざ呼び出したのはお前ら海軍様じゃねェのか?」
安い挑発だ。上から下まで舐めるような視線を向けながら言う台詞ではないな、とクロコダイルは心の中で鼻を鳴らした。こんな腐った人間ですら海軍の上層部にいるのだ。いかに奴らの謳う正義というものが安っぽくくだらないものかがよく分かるというもの。
「まァいい。会議が始まるまで暇でね。話し相手を探してるんだが」
珍しく葉巻を銜えていない口許に笑みを湛えたまま、クロコダイルは肩を竦めて見せる。実際の所本当に暇を持て余していたとしてもこんな男では暇潰しにすらならないが、クロコダイルの目的は暇潰しではないからそれは大した問題ではない。遠くから響く聞きなれた足音がドフラミンゴの接近を知らせていたし、おそらくドフラミンゴが嫉妬という感情を持ち合わせていればこの男と話している時間などもう内に等しいだろう。クロコダイルの台詞に気を良くしたのか男が何やら言っているが、正直なところ既にほとんどその内容を頭に入れてはいなかった。適当に相槌を打ちながら神経を張り巡らせドフラミンゴの動向を探る。一度でもそちらへ視線を向けてしまったら、ドフラミンゴの存在に気付いている事がばれてしまうだろうし、そうなっては計画にはなんの意味もなくなってしまう。不意に止まった足音が、ドフラミンゴが此方の存在に気付いたことを示していた。不意に辺りに漂い始めた殺気が心地よくクロコダイルの神経を撫でる。それにすら気付かずに話し続ける男に呆れを覚えることすらなく、クロコダイルは更に笑みを深めた。暫しそこに留まっていたらしいドフラミンゴが歩き出したのか、再び足音が響き始める。それに気付いた海兵がギョッとした表情を浮かべたものだから、漸くクロコダイルはそちらへと視線を向けようと一度瞳を閉じたその瞬間。
「…は?」
クロコダイルの身体が宙に浮いた。否、正確にはドフラミンゴに抱き上げられた。背とひざ裏に回された腕がしっかりとクロコダイルを横抱きに抱え支える。所謂お姫様だっこのその様相に、さすがにそこまで予想しいなかったクロコダイルは焦った。ここをどこだと思っているんだこの馬鹿は。
「…ッ、おいドフラミンゴ…ッ!」
「うるせェ、黙ってろ」
見上げたドフラミンゴの表情は彼のトレードマークとなっているサングラスに阻まれて見えないが、少なくとも機嫌は良くなさそうだった。咄嗟に呼んだ名も一言で切り捨てられ若干の苛立ちを感じたクロコダイルだったが、今回に限って言えばわざと怒らせたようなものなのだからそれについては言及しない。それよりも呆気に取られたようにぽかんと口を開けた間抜け面を晒して此方を見る例の海兵に視線を向けると、それによって更に神経を逆なでされたらしいドフラミンゴの舌打ちが響いた。
「悪ィが、こいつは連れてくぜ」
ちっとも悪いと思っているようには聞こえない声音でそれだけを告げると、ドフラミンゴはくるりと踵を返し来た道を戻り始める。引き結ばれた唇に一切の笑みを浮かべず全身から怒りを迸らせたドフラミンゴを引き留められる程己の力を過信してはいなかったらしい哀れな海兵は、一言も言葉を発することなくその後ろ姿を見送るしかできなかった。







ぽい、と文字通り、クロコダイルは放り投げられた。そこはスプリングの効いたキングサイズのベッドであり間違っても床などではなかったため強い衝撃や痛みなどは感じなかったが、元来気が長い方ではないクロコダイルはさすがに額に青筋を浮かべて己を投げ捨てた男を睨め上げる。結局あの後ドフラミンゴは自室に付くまで一言も発しなかった。クロコダイルが呼び掛けても一切応じず黙々と歩みを進めるのみで、クロコダイルはその居心地の悪さに眉間の皺を深くする。
「テメェ、何しやがる」
「…そりゃこっちの台詞だ、クロコダイル」
鋭い視線で睨み付けたまま地の底から声を響かせたクロコダイルに、しかし同じくらい低い声でドフラミンゴは漸く口を開いた。ああ、これはかなり怒っているな。口角が上がっていないどころか、下がりに下がったドフラミンゴの不機嫌さは見ての通り。そして今クロコダイルが放り投げられた場所は、ベッドである。今更ながら、クロコダイルは己の身の危険を感じ始めていた。しかしドフラミンゴの怒りに満ちた表情など滅多に見られるものではなく、クロコダイルはむしろその表情をもっと見たいと思ってしまった。都合よくドフラミンゴ自身もベッドへと乗り上げて来たのを見計らい相手の首に左手の鉤爪を引っ掛け力任せに引き寄せる事で互いの距離を一気に縮める。残った右手で毟る様にして邪魔なサングラスを取り払ってしまえばそれをドフラミンゴが先程己にしたようにぽいと放り投げ、隠すものの無くなった相手の表情を間近で見上げてやった。見た事のない色を湛えた切れ上がった瞳は、存外悪くない。
「クハハ…情けねェ面しやがって」
「…ッ、お前なぁ…!」
呆れた様な笑みとともに言われた台詞に、とうとうドフラミンゴが語調を荒げた。苛立ちを隠そうともせずにクロコダイルの左手を掴み引き離す。加減を忘れたその動作は強い痛みを伴ったがクロコダイルは眉一つ動かさずにそれを享受する。まさかここまでドフラミンゴが怒りを露わにするとは思っていなかったが、ある種嬉しい誤算だ。自分で思っていたよりもドフラミンゴに執着されているらしいことに仄暗い喜びを覚えた己に、クロコダイルは自嘲気味に笑みを浮かべた。ドフラミンゴの己への執着よりもまず、己のドフラミンゴへの執着に改めて気付かされる結果となってしまった。
「…だが、悪くねェ。そうやって俺をずっと求めてろ」
「あァ…?……ッ!お前まさかわざとか?わざとなのか?これは仕返しかおい!」
にやり、と口端を吊り上げニヒルに笑ったクロコダイルに、漸く今日のクロコダイルの行動の意味に気付いたらしいドフラミンゴは頭を抱えた。だって、誰が想像できようか。この海よりも深く山よりも高いプライドを持った男が(一応)恋人の浮気の仕返しにわざと気を揉ませるような真似をするなどと、いったい誰が。思わず荒げた声のあまりの余裕のなさにクロコダイルは声を上げて笑い、ドフラミンゴは情けなさに項垂れる。
「…っとに…敵わねェよワニ野郎…」
腹の中で燻っていた怒りはもはや消え失せていた。クロコダイルの返答や態度次第ではこのまま監禁してやろうかとまで考えていた筈のドロドロとした怒りだった筈なのに、なんと自分は単純な人間なんだろうか。だが冷静になって考えてみればなかなかに面白い話なのではないだろうか。あのクロコダイルが、己の気を引きたいばかりにわざわざ大嫌いな海兵を使ってまで嫉妬させようとした、などと、普段であれば想像すら出来ない話だ。そうだ、つまりクロコダイルはそれ程に――…。
「おれに構って欲しかったってか…?」
「…ハッ、よく分かってるじゃねェかフラミンゴ野郎」
ああ、今日はどれだけからかってみても優位を勝ち取れそうにはない。ドフラミンゴは盛大な溜息を吐いて、随分と機嫌の良い恋人に構うべく一先ずその身体を押し倒すことにした。




言い訳
なな様より頂いたリクエスト「ドフラを嫉妬させようと企む鰐」
なんだか色々と履き違えまくってる気がしなくもないですが、こんな感じで大丈夫でしょうか…?返品可なので、こんなのじゃない!って言って頂ければ書き直します…!
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