なし崩しだ。全く以て、なし崩しだ。深い深い溜息を吐きだしながら、クロコダイルは軽く瞳を閉じた。
目の前の、今まさに己に覆いかぶさって口角を吊り上げている男には最早何を言っても通じまい。そもそも3カ月という(男にしては)長い期間姿を見せなかったのはこの男だと言うのに、結局待てが出来ない駄犬…いや駄鳥?は久々に喧騒に包まれたカジノの奥にある執務室を訪れたと思えば人の顔を見るなり襲いかかって来たのだ。抗議の声を上げようが怒鳴りつけようが抵抗しようが、こうなった男―――ドフラミンゴが引き下がることなど無いことは、決して短くはない付き合いの中でしっかりと学んでいた。
だからと言って(幾ら上質の絨毯が敷き詰められているとは言え)床の上で事に及ぶ様なことを許す気にもなれず、せめて隣の仮眠室へ移動しろと要求したクロコダイルにドフラミンゴは素直に従った。
早急な動作できっちり着込まれた己の衣服を乱していくドフラミンゴをどこか他人事のように眺めながらクロコダイルは思う。こんなにも余裕をなくしてがっつくくらいならおかしな意地など張らずに会いに来ればいいのだ。我慢など似合う男でもあるまいに、と。そもそも時折こうやって会いに来る期間を開けた後のドフラミンゴは些か乱暴が過ぎるのだ。抵抗することすら面倒くさくなる程に執拗にクロコダイルの身体を求め、苛む。明日はもしかしたら動けないかもしれない。否、間違いなく、動けない。この男の来訪を知った優秀な副社長が此方の意を汲んで上手く動いてくれることを祈るばかりである。
重い溜息が耳に入ったのか、黙々とクロコダイルのコートとシャツを放り投げ太い首筋に顔を埋めていたドフラミンゴが漸く顔を上げた。
「どうしたワニ野郎、溜息なんか吐いて。久しぶりに会えて感激でもしてンのか?」
「馬鹿言うんじゃねェよ。ここ暫くの平穏が終わりだと思うと溜息も出るってもんだ」
相変わらず口元にだけは深い笑みを張り付けているドフラミンゴに、見た目ほどの余裕がないことは分かっている。だからと言ってそれを心配して甘やかしてやる程クロコダイルは優しくはなかった。もっとも、ドフラミンゴがこの部屋に(それこそいつだって)足を踏み入れることを許している時点で非常に甘やかしていることになるのだが、ドフラミンゴはおろか当人であるクロコダイルですらその事実には気付いていない。もしかしたらクロコダイルはただ単に気付かないふりをしているだけなのかもしれないが。
「ツレねェなァ、砂漠の英雄は愛に飢えたしがない海賊にゃ優しくしてくれねェのか。もうちょっと可愛くおねだりしてみたりよォ」
大袈裟に肩をすくめるドフラミンゴに、クロコダイルは本日何度目か数えることすら馬鹿らしい溜息を吐いた。優しくされたいのはこっちだ、と今日これから己の身を襲う出来ごとを考えればぼやきたくもなる。ドフラミンゴの辞書に手加減という言葉を無理矢理加えたくなるクロコダイルを責める者はどこにもいないだろう。言い返すのも面倒くさく口を閉ざしてしまったクロコダイルを気にする風でも無く、ドフラミンゴは自らもピンクのもさもさ…もとい、コートを脱ぎ棄てた。次いで派手な柄のシャツも脱ぎ去ると、ぽい、とベッドの下へと放り投げる。
不意に視界に入ったその赤い線に、クロコダイルは小さく眉根を顰めた。シャツを脱ぎ去ったことで露わになった(認めるのは非常に不本意だが)逞しい二の腕に数本、引っ掻いたような傷跡。右腕…いや、こちらから見て右側にあるのだから左腕か。クロコダイルは己の機嫌が急降下していくのを感じながらドフラミンゴを見上げる。
「…おい」
呼びかけると思ったよりも不機嫌な声が出た。地の底を這うような、一般人が耳にすればそれだけで震えあがるようなその声はしかし同じ七武海の称号を持つ男に通用する訳が無く、ドフラミンゴはちらりと視線を落としてくるだけで返事は返って来なかった。それがますますクロコダイルの神経を逆撫でし、これ以上ない程に落ち込んでいた筈の機嫌は更に落ちて行く。二の腕の傷は、どこからどう見ても細い爪で引っ掻いたような痕。まるでそこに縋った何かが、堪え切れずに付けてしまったような、いったい何があったのか、状況が容易に想像できてしまう己の出来の良い脳味噌をクロコダイルは呪った。ここで気付かないフリが出来れば、ドフラミンゴの言う可愛い恋人なるものになれるのか。しかしそんな都合の良い相手など御免だ。まさか余裕がないと思っていた男の様子も、ただ単に此方に集中していないだけで他の女(もしくは男)の事を考えながら致しているとでも言うのだろうか。もし万が一そうだとしたらそれは屈辱なんてものではない。だいたい何が気に入らないって、普段は此方の感情の機微に無駄に敏い男が全く此方の様子に気づいていないことだ。そんなにその浮気相手が大切か心配か。いや、そもそもまさかこっちが浮気相手だとか言うんじゃないだろうな。
そこまで考えて、クロコダイルは小さく舌打ちをする。これではまるで嫉妬しているようではないか、馬鹿馬鹿しい。断じて嫉妬ではない。ただ単に代用品としてみられる事が気に食わないだけだ。プライドを傷付けられて頭に来ているだけだと己に言い聞かせながら、再び覆いかぶさって来たドフラミンゴを押し退ける。
「…なんだよ、抵抗したってやめねェぞ」
「なんだはこっちの台詞だクソミンゴ。テメェ何のつもりだ」
漸くクロコダイルの機嫌が頗る悪いどころではなく地の底まで降下していることに気が付いたドフラミンゴは、僅かに訝しげな表情を浮かべて身体を離した。






ここ数年、最初の頃と比べてかなりドフラミンゴの我儘に寛容になって来たクロコダイルの機嫌がここまで悪いのは久し振りの事だ。なんだかんだと文句を言いながらもドフラミンゴを受け入れるクロコダイルは己の変化に気付いているのかいないのか、口の悪さこそ変わらないがドフラミンゴに対する対応は非常に甘くなっていた。その変化に気付いて戸惑っているのはクロコダイルではなくどちらかといえばドフラミンゴの方であると言うのは些か情けない話ではないだろうか。最初こそお気に入りの珍しい玩具、程度の執着だったはずなのに今はどうだ。たった三ヵ月、予想外に立て続けに起こった無能な部下の失態で尻拭いの為に奔走していた間クロコダイルに会えなかっただけでこんなにも余裕を失っている。それもこれも、クロコダイルが悪いのだ。近寄ることすらも許さずに邪険にしていたと思えば、気まぐれにテリトリーに踏み入れる事を許す。ほんの少し触れるだけでも警戒心を露にしていたくせに、奥の奥まで暴き立てることすらも許してしまう、クロコダイルが悪いのだ。そうでなければここまで執着することなど無かったはずなのに。
今日だってそうだ。いきなり訪問したドフラミンゴに対して追い返すこともなくすぐに執務室に通され、出会い頭に押し倒した事すら咎められることなく(文句は言われた気がするが)場所を変えろと言われただけだった。どういうことだ。
そんな止め処なく不毛な考えを巡らせていたドフラミンゴを我に返したのは、急激に機嫌を直下降させたクロコダイルの僅かな抵抗であった。
「…なんだよ、抵抗したってやめねェぞ」
ここまで来て今更か!と内心叫び出したい気持ちを押さえドフラミンゴは彼にしては努めて冷静な声で窘めたつもりだったが、それに対するクロコダイルの返答は大変冷たいものだった。
「なんだはこっちの台詞だクソミンゴ。テメェ何のつもりだ」
なんだ。先程まではここまで機嫌は悪くなかったはずだ。ドフラミンゴの見た目からは想像できないがクロコダイルと比べても遜色のない優秀な脳みそはフル回転で今日久々に顔を合わせてからの己の行動を省みていた。押し倒した時点では抵抗らしい抵抗はなかった。服を脱がせる時ですら、むしろ腕を上げたり腰を浮かせたりといつもよりも協力的だったくらいだ。首筋に顔を埋めても、この涼しい地下室に籠っていたからか汗をかいた様子もなかったから暑さで機嫌が悪いということも無かったはず。ならばその後か。クロコダイルの服を脱がせ、その後は…。そこまで考えて、ふとドフラミンゴはクロコダイルのその眼力だけで人を殺せるのではないだろうかという程に凶悪な視線が己の顔には注がれていないことに気が付いた。特に意識をした訳でもなくその視線を追うドフラミンゴの視界に入る、赤い線。身に覚えのありすぎるその引っ掻き傷に、ドフラミンゴは体中の血液が一気に下がって行くのを感じた。ピシリと固まり動かなくなったドフラミンゴの様子に改めてクロコダイルは己の想像が間違っていなかったことを悟り眉間に寄せられた皺は更に深いものとなる。
「あー……」
ふい、とクロコダイルから視線を逸らしたドフラミンゴの口から洩れたのは彼にしては珍しくもあーだかうーだか意味を持たない呻き声のみで、だからといってそれで誤魔化せる訳もなく不愉快極まりないと言った表情のクロコダイルには当然通用しない。言い訳するならしてみろと言うように鋭い視線を投げてよこすクロコダイルに、ドフラミンゴは観念したように両手を顔の横まで引き上げ降参の意を示した。
「溜まってたんだよ、仕方ねェだろ」
降参の意は示したものの、口に出された言い訳は最悪。ビキリと額に青筋を浮かべたクロコダイルはしかし敢えて口を開くことはしなかった。感情的になりつつある今、ヘタに口を開くと余計な事を言いかねない。断じて嫉妬をしている訳ではないし、別に己に跨る男との間に浮気だのなんだのと騒ぎ立てられる程の確固とした関係性がある訳でもない。ここで己が騒ぎ立てれば相手にとって都合の良い餌をやることにしかならないのではないだろうか、とクロコダイルは考えたのである。
「…そうか、なら今すぐに俺の目の前から消えろ。そして殺されたくなきゃ二度と顔を見せるんじゃねェ鳥頭」
考えたからと言って、本来沸点が低過ぎるクロコダイルに言葉を選ぶ余裕などある訳もなかったのだが。
一方ドフラミンゴは静かに怒り狂うクロコダイルの様子に僅かながら期待に似た喜びを感じていた。たかが性欲処理の為の一夜の相手など既にどんな顔だったかすら覚えていないが、少なくとも黒髪が美しい女だった事だけは確かだ。髪の色も服も派手な女が好きだった筈なのにまるで何かに執着しているかのように黒髪の女ばかり抱いている己に気が付いたのもつい最近。改めて遊びや暇つぶしでなく己の下で射殺さんばかりの視線を投げつけてくるクロコダイルに参っている証拠だ。だが相手はあのクロコダイル。好きだ惚れた愛してると幾ら言葉を零しても壊さんばかりに抱いても此方の想いを受け入れるどころか鼻で笑って砂塵を飛ばす。そんなクロコダイルが、己がクロコダイル以外の人間を抱いたことに対して怒りを露わにしているのだ。これは脈があるんじゃないだろうかと心を弾ませるドフラミンゴを一体誰が責められようか。
「…そう怒るんじゃねェよ。だいたい誰の所為だと思ってんだ」
「あァ?意味が分からねェんだよクソが」
「お前に会いたくて会いたくて鬱憤が溜まってたンだろうが。女抱いても興奮しねェわ勃ってもイけねェわ散々だったぜ全く」
「…は?」
結局、先に意地を張るのを諦めたのはドフラミンゴの方だった。ガシガシと短い金の髪を掻き乱すと大きな溜息と共に吐き捨て軽く瞳を閉じる。全く以て似合わない。男でも女でも誰であろうと迫られれば抱いたし飽きれば捨ててきた筈なのにたった一人の人間にこうも執着し他の身体では満足出来なくなってしまったなど、情けなさ過ぎて涙が出ると言うものだ。しかしどうも独り善がりの重いではないかもしれないと気付かされてしまった今、意地を張り続ける事の方が馬鹿らしい。
「どうしてくれんだクロコダイル。お前しか抱けなくなっちまった」
「…テメェは…」
常に口元に張り付けている笑みを消し、ぼそりと呟いてみる。目を見開いたクロコダイルの表情に思わず頬が緩みそうになるのを堪えるのが存外大変だとドフラミンゴは思った。
クロコダイルはクロコダイルで非常に困惑していた。一体いきなり何を言い出すのだこの怪鳥は。全く以て意味が分からない。ふざけるな馬鹿野郎。これではまるで愛の告白だ馬鹿馬鹿しい。言いたいことは沢山あるのに言葉が出ない。混乱の極みに陥れられたクロコダイルはしばし黙り込んだ挙句、結局小さな溜息を吐くに留めた。こうもまっすぐに来られると、応えない訳にはいかないかもしれない。嫉妬などと馬鹿馬鹿しい感情を抱いてしまった事を認めるのは心底嫌だが事実から目を逸らしても良いことなど無いとクロコダイルは決して短くはない人生の中で学んでいたのだ。受け入れてみるのも悪くはないかもしれない。ほんの少しだけ、ドフラミンゴの言葉が嬉しかったなどとは口が裂けても言うつもりはなかったが。
「…おいフラミンゴ野郎」
「ん?」
「…その女は殺してきたんだろうな?」
「…あ?
ふと、クロコダイルはその優秀な頭脳の端で擡げた些細な疑問を躊躇うことなく口にした。認めてしまえば素直なものである。改めて考えてみても、結局ドフラミンゴの行為は浮気には違いないのだ。だからと言ってその怒り全てがドフラミンゴに向くとは限らず、クロコダイルは(先程よりは余程マシだが)不機嫌な表情で言った。
「俺のもんに手ェ出したんだ。それ相応の代償は必要だろうが」
一瞬呆気に取られた表情でぽかんとクロコダイルを眺めていたドフラミンゴの口角が次第に吊り上がり笑みを形作る。時代はスマイルだ。今なら心の底から大声で笑ってやれる。
「フ…ッ、フッフッフッフッフ…!可愛いこと言うじゃねェかワニ野郎…!安心しろ、もうこの世にゃいねェよ!」
些か特徴的な、しかし耳に馴染んだ笑い声が部屋に響くのを感じ、クロコダイルは地の底まで落ち込んでいた機嫌が浮上し始めるのを感じる。ああ、結局この男に絆されるのか、などと頭の隅で思いながらも重い鉤爪の内側にドフラミンゴの首を引っ掛け強く引き寄せれば緩く弧を描いた唇を自ら重ねてやった。

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