意識が浮上する。どろりとしたぬるい空気が頬を撫で、詰めていた息をゆっくりと吐き出した。常と比べ鼓動の速度を増した心臓は一向に落ち着く気配をみせず、今の今まで閉じていた瞳を暗闇に馴染ませるために幾度かの瞬きを繰り返すことで、ようやく今の己の状況を確認することができた。見上げた天井は、見慣れきったそれであった。自室ではなく、居を共にする煙の臭いを常時纏わりつかせた男の部屋の、本来の白さを僅かばかり失った天井だ。つまるところここは自宅であり、今はまだ空に星が瞬いている時間である。
 自宅。そう、自宅だ。自覚した途端に押し寄せた安堵に、無意識の内に強張っていた身体から力を抜く。ここは自宅で、今は深夜で、得体の知れぬ夢に情けなくも混乱し動揺している己は、ただの研修医だ。決して、己の命を賭して海原を駆ける、海賊、などというものでは。
 今しがた見ていた夢を思い返す。よく知った顔触れだった。己の養父と、その部下には命を狙われ陥れられた。日頃父としての顔しか見ることはないが、あるいは彼は、外ではそういった人間なのかもしれない。奇特なことに己を慕ってくれる後輩達は、変わらず己を慕い付いてきた。命を捨ててなお、己を生かそうとした彼らの表情が瞼に焼き付き消えてくれない。腐れ縁の幼馴染とは、どうやらライバルのような関係であるらしかった。決して良好といえる関係ではないだろうに、命を狙われている己を匿い、果てはてめェを殺すのはおれだなどとのたまった彼のお人好しぶりは健在だった。そして、居を共にして既に10年近くを過ごした男は、どうにも言葉にしがたい位置にいた。敵でありながら、恐らく誰よりも焦がれていた。手に入らないと知り、また己も男の手を取ることはないと、そうして生きて、生きて、夢の中で己は死んだ。
 命を失った訳ではなく、世を捨て、己の生き方を捨て、小さな小さな島で一人海を眺めながら、それなりに余生を楽しんではいたようだった。夢の中の己が家族と称した、己にとっての後輩達は大量の土産とともにしばしば島を騒がせて行ったし、己は穏やかな暮らしを存外気に入っていた。手に入らないと思っていた男は何故だか度々島を訪れ、同じ時を過ごしていた。最期の瞬間まで互いにそれを口にすることはなかったけれど、間違いなく己はあの男を手に入れたのだろう。
 まるで長い長い物語を読み終えたような、胸を掻き毟りたくなるほどの寂寥感と焦燥感。それらを振り切ってしまいたくて身を起こしたのに、ぱたりぱたりと塩辛い水が手触りの良い毛布の上に落ちた。悲しい、とは思わなかったはずだった。なぜ己が今泣いているのか、理由などまったく見当もつきはしない。けれど止める方法も思い付かず、ぼろぼろとあふれる涙が頬を伝い、零れて落ちる。
 どうしていいかわからないままただひたすらに水分を吐き出しているうちに、不意に体が傾いた。スプリングの軋む音。緩慢にそちらへ視線をやれば、ひどく不機嫌そうな表情を浮かべた同居人がその巨体(腹立たしいことに夢の中でも現実でもそれは変わらなかった)を起こしてこちらを見ていた。不機嫌そうだった表情が、一瞬呆気にとられたように間の抜けたそれに変わり、次の瞬間には眉間に寄せられた皺がさらに深くなる。
「……こんな時間に、なにしてやがる」
「……なんでもねェよ」
 少し掠れた寝起きの声は、夢の中で己の名を呼ぶ姿と重なった。日頃は後ろに流している前髪が額を隠している様など何度も見ているはずなのになぜだか少し懐かしい。
 寝ろ。そう言って伸ばされたぶあつい掌にわしわしと頭を掻き回され、嘘のように涙が止まってしまった。
×
「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -